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壁井与三郎「大相場師」1984

 東洋経済新報社刊。本書は実に14人を取り上げているが、そのうち以下の二人についての記述を選んで紹介する。相場師には悲惨な末路も多いなか、この二人は成功したままで人生を終えている。売りのタイミングを間違えなかったことで株式投資で成功したこと。そして株で稼いだあと、実業に転じて成功したこと。などは二人に共通する点である。

 最初は福澤桃介(1868-1938)。この人は福澤諭吉の婿養子として福澤家に入ったことで有名。もともとは埼玉県比企郡の農家の出身。勉強ができたので、家族などの支援を受け、川越の中学へ。さらに郷党の支援を受けて慶應義塾に進んだ。さてその慶應で諭吉一家に注目されることになった。
 養子にはいるについて洋行をさせてもらえることを条件として、1887年(明治20年)2月に船で渡米。ビジネス学校に半年学んだあと、1888年1月ペンシルヴァニア鉄道会社にて実地に仕事を学んだとされる(明治期にあって得難い経験をした日本人ではないだろうか。)。帰国は1889年11月。帰国後結婚して北海道炭鉱鉄道株式会社に就職。順調に思えた人生だったが1895年10月に肺結核で療養入りを宣告されてしまう。
 このときたまたま日清戦争後の三国干渉で株価が急落した後、賠償金の支払いが行われるということで、再び株価の急騰が生じた。桃介はここで貯めていた貯蓄を使って株式投資に開眼、大きく儲けた。また翌年には、貿易の入超、物価騰貴、日銀の公定歩合引き上げの中、株価が急落を演じた。ここで桃介は損失も経験し売りの重要性にも気づいたとされる。
 その後、桃介は会社員勤めに飽き足らず思い、丸三商会という貿易会社を、諭吉の支援も受けて起業したものの、資金繰りに失敗し行き詰まり、諭吉からも叱られる経験をしている。1901年その諭吉も亡くなり、桃介は北炭に復職、余暇は相場の研究に没頭したという。
 経験と研究を糧に、桃介が株で大きく儲けたのは日露戦争時である。講和条約の内容に失望売りが出て株価が大きく下がったところでまず積極的に買った。しかし翌年、日銀が公定歩合を下げる中、株価が高騰。桃介は天井が近いことを確信するようになり、急騰した銘柄を売ってゆく。また相場に専念するため、北炭を退職した。1906年1月21日ついに大暴落が始まったとする。こうして巨富を得た、桃介は、それを元手に実業界に飛び立つことになった(なおこのとき売買の中身には北炭株も入っている。当時の株式売買は、現代であれば、インサイダー取引の規制対象のようにも思える。)。

 もう一人は望月軍四郎(1879-1940)である。この人は静岡県富士郡の生まれ。儲けたお金を教育界に寄付したことは有名。その学校の名前には、慶應義塾、成城学園(望月の中国との関係を考えると成城学校に寄付しても不思議はないが?)、青山師範付属小学校、慶應幼稚舎などがあがる。
 まだ軍四郎は14歳のときに村上太三郎が経営する入丸商店(株式ブローカーであろうか)に入った。小僧として就職して間もなく、日清戦争に伴う株のブームと急落があり、村上に黙ってやった相場で損を出し、店に損失を与えてしまう。この件で一度は店を追い出されるが、その後、わびを入れて店に復帰している。この経験を通じて、考課状(決算報告書)を研究せずに株を買うことは博打だとの考えに至ったとのこと。
 そして日露戦争。天井打ちを待って売りまくって、村上とともに軍四郎は大儲けしたとのこと。こうして村上の信頼を獲得した軍四郎は、村上の養女と結婚。やがて村上の許しを得て望月商店を開業した。
 その後、軍四郎はサヤ取りという安全な手法で確実に儲けを出した。かつ大手の銀行も望月商店を信頼。なおこのサヤは、株高見込みの時拡大する。欧州大戦の勃発の高騰時に、軍四郎はサヤ拡大のチャンスを活用した。他方、終戦後の値下がりも読んで、いち早く売りに徹しそこでも儲けをだした。
 このように証券で儲けたあと、実業に転じて成功したのは、先ほど見た福澤桃介と同じである。

#福澤桃介 #望月軍四郎

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