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薛暮橋 私営経済開門を提起 1979/03

 薛暮橋の貢献として知られることの一つは、都市の待業青年問題の解決のために、個人事業=私営経済を認めるために尽力したことである。改革開放中的薛暮橋:探索社會主義市場經濟改革 http://www.reformdata.org/content/20140717/26862.html  2015/06/15閲覧より,  生産資料(手段)の個人所有というこの方向が、さらにその先に進むのに多くの時間はかからなかった。

    彼(薛暮橋)は理論界で最も早く個人(個体)私営経済の発展を提起した経済学者であった。彼が実践を通じて理解したのは、もしも個人私営経済が発展しなければ、就業問題はますますひどくなる(越來越嚴重)ということである。薛暮橋はかつてある会議報告で述べた。「過去においてそれ(就業問題)は資本主義の破綻(漏洞)を示すものだった。埋めることもできず(堵不勝堵)、現在は破綻を大門に変えることが求められている。都市においては集団所有制がなお提唱されるだけでなく、町を移動して刃物を研いだり、靴を磨いたりといった個人労働でさえ提唱され、完全になくす必要はない。」
    1979年の元旦からほどなく、たまたま羊年の春節であった。75歳の薛暮橋は杭州で『中国社会主義経済問題研究』を書いていた。この間、浙江省で下放(上山下郷)され都市に戻った仕事待ちの青年たちが、省政府庁舎で就業を求めて請願していた。これは孤立した動きではなく(無獨有偶),当時全国の待業者はすでに2000万を超え、都市に戻った知識青年は700万、都市内の待業青年は320万にのぼった。21の省、市、自治区で下放知識青年、都市の待業人員が前後して集会、デモ、ストライキ、ハンスト、請願、汽車を止めるなどの動きがあり、北京に進入し、書簡を公開するなど、中南海を悩ます(驚動中南海)深刻な(爆炸性)問題になった。
 薛暮橋はこのことを知り、現場にゆくことを求めた。いい歳の人々がすることもなく仕事を求めて歩いている姿に、薛暮橋は心を痛めた。これは知識青年の前途のことだけでなく、多くの家庭の幸福、さらに社会の安定に関係している。しかし現在国家はなさねばならないことが多く(百廢待興),飛び出して解決したりできず、これだけ多くの青年たちに仕事を与えることもできない。彼は自身責任があると感じた。理論的に問題の根本をさぐるのではなかった。具体的管理制度についての孤立した研究では出口はなかった。薛暮橋はこの問題を解決するためには、根本を動かさねばならないと認識していた。根はまさに所有制の仕組みにあった。かれは浙江省委員会書記の鉄瑛に面会を求め(找到)、観点について意見を交わした(交流看法)
 3月に薛暮橋は書き上げた原稿をもって北京に戻り、ちょうど労働部の開会に間に合い、参加と講話を求められた。薛暮橋は1979年3月24日全国改革工資制度座談会で、「労働工資問題を語る」と題した発表を行った。その講話の中でつぎのように述べた(提到)。
 「理論界には、資本主義を疫病神(瘟神)だとする「右恐怖症(恐右病)]」がまだ残っているが、必ずこれを絶滅せねばならない。…目下、資本主義と個人経済の尾が少し残っているが、これは利が多く害が少ないといえる。第一はこれが少し競争することで、国営経済は官僚主義を少し減らすことができる。第二は、国営経済がしたくないことを行い、空白を埋めることができる。第三は市場の需要を満たし、人民生活を便利にできる。」「我々の現在のような社会主義生産関係は、管理が行き過ぎ、統一が行きすぎている。国家は人々が工場を開いて生産の門を開けることを助けることも、人々が生産の門を開けることを許すこともない。両手を縛っておいて、残った口で食べろという。人々が出口を見つけ自ら動くと,投機(私利を図ること)だ、資本主義の復活(復辟)だという。このような社会主義で、資本主義を超えることはできない」
 


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