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吉川幸次郎 中国の都市と農村ー二つの中国 1949/08

 吉川幸次郎(1904-1980)が1949年8月が書いた以下のエッセイの大意である。吉川は1928年4月から31年2月まで3年近くを中国で過ごしている。また23年春にも、単身中国を旅行している。手元にあるのは錢婉約により中国語に翻訳されたものなので、ここでは中国語文献に分類し、大意を示しておく。都市と農村の差異の指摘、都市に間接税、農村に間接税という対比、中国共産党を享楽的な都市に対し、貧しい農村を体現したものとみる見方など、示唆的である。
    吉川幸次郎著 錢婉約訳 ”兩個中囯-中國的城市與農村”載《我的留學記》中華書局2008年pp.164-172 

 税の歴史からして中国の歴史は農村に過酷だったというのが出だし。都市では塩、酒、たばこなどに間接税はあるが、それだけであった。都市の生活は奢侈的であったと始める。北京をはじめ、大邸宅がみられるが、大学の教員でも、車夫、コックに女の使用人3人も抱える生活だと続ける。都市住民の半分は読書人、あるいは古典の教養を学び官吏を務めているといった人々。そして都市の住民の残りの半分は商人。彼らは営業税を納めねばならないが、それでもそれは農村ほど過酷なことではない。
 これに対して、農民は直接税を納めねばならず、農村の生活は悲惨だとする。農村が悲惨なのは、欧州的な農奴制度のせいではない*。しかし貧しい。その不満は農村で土匪と呼ばれる暴力集団を生み出した。時にこの土匪は大規模な暴動をひきおこした。
   (これはよく指摘される点である。岸本美緒さんは次のように書いている「中世ヨーロッパの領主制度と異なり、中国の地主は小作人に対して身分的な支配関係があるわけではなく、単なる土地の貸し借りの関係ともいえる」岸本美緒『中国の歴史』ちくま学芸文庫2015年p.245)
 洪秀全による太平天国の乱も、その(農村の悲惨さがひきおこした暴動の)一つとみなせる。
 そして現在の中国で、中国共産党はこの農村勢力の代表だと吉川はいう。14世紀明の太祖朱元璋は、都市に入り、読書人を幕僚に加えその様式にまなぶことで、その地位を強固にした。
 共産党は、明の太祖のように都市化の方向をたどるのであろうか。あるいは(太平天国の洪秀全が口語体の文章をを出し都市の読書人とは対抗したように)別の道を歩むだろうかと疑問を投じて吉川は筆をおいている(吉川がこの文章を書いたのは1949年8月。新中国建国直前である。)。 

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