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David Hume 1711-1776 (1)

ヒューム By David R. Henderson
Cited from Econlib.org

  哲学、歴史、政治についての発言treatmentsでより知られているスコットランドの哲学者David Humeは、経済思想においても幾つかの基本的essential貢献を行った。彼の英国重商主義に対する経験に基づく議論は、古典派経済学にとって建設の礎になった。 彼の貨幣と国際貿易についての評論essaysは政治批評Political Discoursesの一部として出版され、彼の友人でfellow countrymanであるAdam Smithに強い影響を与えた。 
 英国の商人たちは、経済の繁栄は、輸入を制限し輸出を奨励して、国内にある金量を最大化することで、実現できると信じていた。アメリカの植民地は原材料を提供し、英国はそれを最終財に製造して、アメリカの植民地の消費者に送り返すことで、この政策を容易にした。言う必要もないことだが、この仕組みは短命だった。
 しかしアメリカ(独立)革命が重商主義的政策に介入する前についても、David Humeは、英国に金の蓄蔵をもたらす純輸出(訳注 輸出から輸入を差し引いた差額のこと)が、富を高めるものではないことを、論じた。Humeの議論は本質的にマネタリストの貨幣量の議論だった。国の物価は貨幣供給が変化するとすぐにdirectly変化する。Humeは純輸出が増加し、その支払いでより多くの金が国に流入すれば、国の物価は上昇するだろうと説明した。それゆえ、英国への金流入の増加は、英国の富を必然的にかなり増やすものではないと。
 Humeは金流入による国内物価の上昇は、輸出を損ない輸入を奨励し、隠して自動的に輸出が輸入を上回る量(訳注 =純輸出)を制限することを示した。この調整メカニズムはprice-specie-flowメカニズムと呼ばれている。Humeの考え方は、Adam Smithの重商主義への攻撃と自由貿易の議論を支えるものだったが、驚くべきことにSmithはHumeの議論を無視した。Humeの見解を言葉通りに受け入れた経済学者はほとんどいないが、依然この議論は国際収支についての多くの探索の基礎である。
 Humeの貨幣動学がしっかりしたsolid把握であることからすると、貨幣の振る舞いbehaviorについての彼の誤った信念は、なおさら記載に値する。Humeは、忍び寄るインフレについての意見を不正確に進めた。-貨幣供給が少しずつ増加することは経済成長を導くと。
 Humeは経済学に対しほかに二つの大きく後を引く貢献を行った。一つは後にFriedrich HayekによりThe Road to Serfdomで彫琢された、経済的自由は政治的自由にとって必要条件だという考え方である。もう一つは、どうあるべきかを事実がどうであるかから導くことはできない、という彼の断言にある。-即ち、価値判断は純粋に事実に基づくだけでは行えない。経済学者は今ではこの点を規範的normative(どうあるべきか)と実証的positive(それはどうであるか)の間の区別として行っている。
 Humeは『諸国民の富』が出版された年に、アダムスミスが登場した年に亡くなった。

ヒューム「私の人生」1777年3月出版
 自身のことを自負vanityなしに長く語ることはむつかしい。それゆえ私は短く語るべきだろう。自負の例として私は私の人生をすべて書くつもりだと思われているかもしれない。しかしこの物語には、私の著述史以上のものは含まれないだろう。実際、私の人生のほとんどすべては、文字による追求と活動に費やされた。(また)私の著述のほとんどの最初の成功は、自負の対象となるようなものではなかった。
 私は、古い書き方で書くなら1711年の4月26日、エジンバラに生まれた。私は、父そして母双方ともに出自からすれば良い家庭の一員だった。私の父の家庭はHome’sあるいはHume'sのEarl(伯爵)の分家であり、私の先祖はその領地estateの所有者であり、それは幾世代の間、私の兄弟が所有しているものである。私の母はPresident of the College of JusticeのSir David Falconの娘であり、Lord Halkertonの称号は彼女の兄への継承によるものである。
 訳注 貴族の爵位は公爵Duke、侯爵Marquess、伯爵Earl or Count、子爵Viscount、男爵Baronという序列がある。

 しかし私の家族は豊かでなかったし、自身は弟であるため、私の相続財産patrimonyは国の方針で大変ささやかだった。私の父は人生の節partsを経て私が幼児の時に亡くなり、私を兄と妹とともに、母の庇護のもとに残した。母は若く美しかったが、彼女のすべてを、子供たちを育て教育することに捧げることを唯一の功績とした女性だった。私はありふれた教育の過程を成功裏に通過した。そして文字への情熱にとても早く捕まった。それは私の人生を支配する熱情となり、私の楽しみの大きな源泉となった。(そして)私の粘り強い性格、真剣さ、そして勤勉は、私の家族に法律が私の正しい職業との観念を与えた。しかし私は、哲学や一般的な学習を追求すること以外のすべてへの、打ち負かせないほどの毛嫌いを発見した。Voet and Vinnius, Cicero and Virgil(これらは)私が秘密裡に熟読した著者たちであり、私を魅了したのである。
 しかしながら私の大変乏しい富は、人生のこの計画に適切ではなく、私の健康は、情熱的努力により少し損なわれていたので、私は誘われたというよりはむしろ強いられた、人生の活動的シーンに入るため、あまり自信のない試みをすることを。1734年に私は推薦状を携えて、ブリストルの何人かの著名な商人のもとに行った。しかし数か月後、そのシーンは全体として私に適切でないことが分かった。私はフランスに渡った。そこに引きこもって自身の研究を進めようと。そこで私は人生の計画を定め、それを着実にかつ成功裡に追求した。私は、不足している富をとても厳格に節約することを決めた。私の独立が損なわれないように、著述での才能の向上以外のすべての出費を無視するように。
 フランスにおける隠遁の間、私は最初はReimsでしかし主としてはAnjouのLe Flecheで、Treatise of Human Natureを執筆した。3年間とても愉快に過ごした後、私はロンドンに1737年にやってきた。1738年末に私はTreatiseを出版した。そしてすぐにcoutry houseに居住する母と兄のところに赴いた。兄は賢明な判断を働かせてその富を成功裏に改善していた。
 文学的な試みで私のTreatise of Human Natureより不運だったものはない。それはdead-born from the pressだった。名誉を受けることもなく噂好きの人々の間で話題にすらならなかった。しかしもともと快活で楽天的な性格のために私は直ぐにその打撃から立ち直り、故郷で大きな情熱をもって自身の研究を進めた。1742年に私はエジンバラで私のEssaysの最初の部分を印刷した。その著述は好意的に受け止められ、間もなくそのことは私に以前の失望を完全に忘れさせた。(以下略)


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