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顧准と会計 陳敏之 1984年7月

 これは顧准の『会計原理』が知識出版社から刊行されるにあたって、『読書』という雑誌に陳敏之が寄稿した「顧准と会計」と題した文章の一部である。1984年7期 pp.130-136 著者陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。ここでは、文革開始以降についての記述が注目されるのでその部分を訳出した。注目は、北京に戻る前、強制労働の状況にあって、顧准がなお日々猛烈に学習した様子、1972年に奇跡的に陳敏之と顧准との連絡が回復したこと、1973年末から彼が、かねて温めていた研究計画に従い、連日北京図書館に朝から晩までこもる生活を続けたこと、などである。また顧准の会計学者としての評価については、末尾で別途述べることにする。(写真は文京区白山公園)
p.134 「文革」が開始されるとすべての学術活動はなにもかも無縁と宣告された。この全国に吹き荒れた嵐のなかで、顧准も当然難を逃れることはできなかった。妻の汪璧同志は1968年4月に不当な扱いのうちに死に至った(含冤致死)。子供たちは当時の極左思想(思潮)の影響のもと、父との縁を切ってしまった(划清界綫)。顧准は家を追い出され、帰る家がなくなり(1965年から1966年の間に私にあてた手紙の中で繰り返し自らを「主人を亡くした犬(喪家之犬)」と卑下した)、まさに子は離れ妻には先だたれた状況にいたった。
 本当に精神的に強い者は、いかなる力を持っても屈服させることはできない。顧准は傷を受けた状態にあって、自身の不幸は置いて、いつも男は責任があると自ら努め、勇気を奮い起こして、国家の未来、社会の未来を探索した。妻と子供たちは、早くに彼から別れ、その後は家族といえるものはなかった。自身は名誉や利権とは無縁だっただけではなく、早くから無価値なもののように扱われた。命はすでに革命にささげられていた。かれにとって、すでに失うものは何もないこと、これは確実だった。経済研究所で彼と一緒に生活した、彼を比較的よく知っている同志が言うには、労働のほか顧准は毎日いつもおよそ10時間以上読書していたと(除了勞動之外,他每天幾乎經常堅持讀書十幾個小時以上)。彼のこのような勤勉さは、経済研究所のなかでもほとんど例をみなかった(極爲少見)。無政府主義があふれていたあの時代、学術研究を堅持することは明け方の星のように得難いこと(寥若晨星)であった。
   1972年7月、顧准は河南省息県から北京に戻った。このとき私と顧准とは通信が途絶えて6年の長さに及び、彼がすでに北京に戻っていることは全く知らなかった。この年の冬、私は休暇を申請して妻と共に私の妹のもとにいるすでに88歳という老母に会いに北京に出かけた。同時に可能であれば、顧准と連絡をとり、独り身の兄にできる限りのことをしたいと考えた。北京についた後、大変幸運だったのは、ほとんどなんの困難もなく私たちはすぐに連絡をとることができた。この再会までに、幾多の混乱離散、さまざまなことがあり、喜びと悲しみが混じったことは、予想いただけるとおりである。このときから1974年の病没まで、我々の間の通信は間断なく続いた。
 1972年から1974年の2年間の通信のなかで、我々は哲学、内外の歴史、経済など各方面の広範な問題を討論した。自らの経験と、現実の歴史は、彼を未来の探索に向かわせた。彼は広大な計画をもっていた。準備に10年の時間をかけて、まず西欧の歴史を研究。それから中国の歴史を研究。それからこの基礎の上に全般的な比較、透徹した全面的な比較分析を行い、そこから人類の歴史の発展の軌跡と規律を探索する。この計画を彼は実践したのである。古代ギリシア史の研究はこの計画の中の一構成部分であった。1973年末から、彼は古代ギリシア史の研究のため、ほとんど毎日冷えた饅頭いくつかをもって北京図書館に通い、古代ギリシア史の研究ノートを書き始めた。彼は通信の中で私に話している。彼は1930年代の流浪から北京にたどり着いたときのあの毎日図書館に駆け込んだ生活に再び戻ったと。1974年5月初め、顧准は喀血が止まらなくなり、病に倒れた。この研究ノートは最後の三段落を残して完成できずに終わった。1982年3月に中国社会科学出版社が出版した『ギリシア都市国家(城邦)制度』これがそのノートであり、未完成の作品である。この2年の通信中の彼の言う「ノート」実際は研究論文であるが、すでに発表されたものには以下がある。「科学と民主」」『読書』1980年第11期、「キリスト教、ギリシア思想と史官文化」『晉陽学刊』1981年第4期、「資本の原始蓄積と資本主義の発展」『社会科学』1981年第5期。
 1974年9月中旬、私は再度北京にゆき床をともにして(一起盤桓了)半月ほど過ごした。これは1934年以後40年で初めてのことであり、生前最後にして最初のことだった。国慶節の前夜、我々の姪と、30年代に知り合いかつて一緒に革命活動をした銀川工作の古い友人に会うため私が西に向かい寧夏に行くのを見送ってくれた。10月中旬、上海に戻って間もなく私は顧准の喀血がまた止まらなくなったことを知った。11月初旬、彼の急を告げる電報が届いた。助けが必要ですぐに来てほしいと。私は彼が肺がんという死の病を患っていると思いが及ばなかった。また、わずか1ケ月という短い時間に病魔が彼の命を奪い去るということも。彼の研究計画、彼の探索、(これらは)彼の命とともに、人間(の世界)を離れるしかなかった。

(顧准の会計学者としての評価について。顧准と交流があったとされる会計学者の葛家澍は、顧准の会計学面の貢献として、1)複式簿記(借貸記帳法)の普及に努めたこと 2)複式記帳の論証にあたっての説明で数学的説明(恒等原理のこと)を用いたこと 3)利潤やコストを計算する重要性を指摘したこと 4)中国に合った会計の理論体系を作ろうと努力したこと の4点を上げている。葛家澍『評價顧准同志遺著『会計原理』』『上海会計』1984年第8期 pp.44-46 この葛家澍による評価は、その後の研究論文を見てもそれほど変更する必要はないと思われる。たとえば以下の論文を参照すると、「会計季刊」という論争の場となる雑誌を創刊したこと、人材の教育に尽力したこと、などを加えている。あるいは社会主義市場経済と彼の会計学とがつながる可能性を示唆している。しかしこれらは私見では小さな付け足しであって、葛家澍の指摘で、大事な点は指摘されているのではないか。董付君  羅旭「感悟顧准在会計領域的成就與影響」『立信会計高等専科学校校報』第17巻第1期 2003年3月  pp.62-64 なお顧准と葛家澍との交流については以下の記事による情報である。陳朝琳「一代英才雖逝,學術思想永存」『上海立信会計学院学報』2009年第3期 pp.91-96, esp.96)

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