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林毅夫 胡書東 中国経済学百年回顧 2001

 この論文は手元にあって実際、日頃参照している論文なのだが、いろいろな問題を感じる論文でもある。まず書誌事項は以下の通り。
林毅夫 胡書東〈 中国経済学百年回顧〉《経済学》第1巻第1期2001年10月pp.3-18
 この論文の最大の問題は中国経済学の百年を論じるとしながら、戦後の四十年についてはかなり粗略に語っていることだろう。
 簡単に内容をみるとまず、アダム・スミスの『国富論』が1901年に嚴復により『原富』として出版されたことをもって、中国に現代経済学が伝入したのはこの1901年だとして、それ以来百年を回顧するとしている。なお嚴復訳は文言体だったこともあり知識界以外には普及しなかったとして、1939年の郭大力,王亞南の新訳出版の意義を評価している(p.3)。郭大力,王亞南は1938年にマルクス『資本論』の第1巻から3巻の翻訳を読書生活出版社から出版したことで知られている(p.10)。この二人の訳業にはほかにリカードの『経済学及び課税の原理』があり、郭大力はマルクス『剰余価値学説史』を単独で訳出出版している(1949年)(p.10)。
 そのほか、北京同文館に「富国策」の科目(課程)が開設されたのは1867年。米国の伝教師W.A.P.Martinが米国の経済学者H.FuncettのA Manual of Political Economyを用いて講義した。同書は1880年に翻訳出版され、中国で翻訳出版された最初の西欧経済学の著作になった。このほか1886年には英国のW.S.JevonsのPremier of Political Economyが翻訳されたとしている。このあと五四運動までのあいだ、翻訳を中心に経済学の本が出版されたとする。また辛亥革命のころからあとは、中国人自身が編著した経済学の本が次第に増えたとする(p.4)。
 他方で1898年に京師大学堂が設立され、嚴復が校長となり、そこには経済学課程が置かれ、日本の教師が招かれた。1905年に科挙制度が廃止されるなか、伝統的な古典の学習から離れて留学を志す若者も増えた(p.4)。
 五四運動のあと、著者は中国の経済学は二本の道を進んだという。一つは系統的に西欧経済学の訓練を受ける道、そして帰国後、西欧の経済学理論を伝えたとする。もう一つは階級闘争の激化のなかで、伝播したマルクス主義経済理論を受け入れる道。ソ連で急速に工業化が進んだことが世界で注目されるなか、国内の西欧経済思想の学者もまた、多少なりともマルクス主義経済学の影響を受け入れたとする(p.5)。
   1930年代1940年代。海外で西欧経済学を学んだ人たちが次第に大学の講壇を占めるとともに、続々と研究成果を出版。中国の社会性質や土地改革をめぐる論争、貨幣制度の問題、各種経済雑誌の刊行なども重なり、中国の経済学界は活気づいたとしている。
 指標として挙げている多くは海外留学組でそれは以下のような人物と書物である(pp.6-9)。(ここは参考になるところ)
 馬寅初(1914年コロンビア大学経済学博士 中国経済学社を劉大鈞らと1923年設立長く社長 中国経済改造(1935) 中国之新金融政策(1937)  経済学概論(1943)通貨新論(1944))
    許璇(1913年東京帝大農科卒業 農業経済学(1934))
    董時進(コーネル大学経済学博士 農業経済学(1933))
 劉大鈞(米国で経済学と統計学を学び清華大学教授 中国経済学社のほか中国統計学社を設立、社長。統計局局長も務める。我国幣制問題(1934) 工業化与中国工業建設(1944))
    趙蘭坪(慶応大学経済学修士 貨幣学(1936))
 柳蔭溥(1923年ウェストノース大学商学院修士 中国金融研究(1936))
    陳翰笙(1921年シカゴ大学修士 1924年ベルリン大学博士 1925年李大釗の紹介で第三インター設立に関与 1927-28年在モスクワ 1928年帰国後中央研究院社会科学研究所副所長 1933年中国農村経済研究会を設立 そのもとに孫冶方,薛暮橋,錢俊瑞,許滌新などが集まった。もう一つの核が南開大学における何廉、方顯廷らによる農村問題研究だったとする。)   
    潘序倫(1924年コロンビア大学経済学博士 会計学(1935))
    金国宝(1924年コロンビア大学修士 統計学大綱(1935))
    陳達(1923年コロンビア大学博士 人口問題(1934))
 何廉(1926年エール大学博士 中国農村之経済建設(1936))
    吳景超(1928年シカゴ大学経済学博士 中国経済建設之道(1934))
    方顯廷(エール大学博士 中国之工業化与農村工業(1938))
    尹文敬(1929年パリ大学経済学博士 財政学(1935))
    張培剛(1934年武漢大学卒業後中央研究院経て1941年ハーバード大学で経済学学ぶ。1945年博士。農業与工業化(1949)。)
 巫寶三(1938年ハーバード大学修士 のちに博士取得 中国国民所得(1948))
 1930年代1940年代、四大経済学者とされたのは、劉大鈞、馬寅初、何廉、方顯廷の4人とのこと(p.9)。
 なお以上の留学組のほかに、留学経験はないものの郵便局員から最後は郵電部副部長にまで昇進した谷春帆を紹介している。中国工業化計画論(1945)などを書き、その影響力は大きかったとしている(p.8)。
   最後に。この論文の大きな問題は第二次大戦後、あるいは新中国建国後の取り扱いである。まず改革開放前については、一面でマルクス主義の古典の普及学習であり、他面で政策の合法性を補強するものにすぎなかったとする。この時期、主要な論争は、1950年代後期の馬寅初の「新人口論」、50年代終わりから60年代初めの李平の「生産力理論」をめぐる論争、そして60年代初めの価値規律、そして孫冶方の価値規律論をめぐる論争の三つだとする。人口論の論争では、馬寅初だけでなく、同じ観点を有していた吳景超も批判されたことが紹介されている。これら3つの論争について、著者はいずれも政治的色彩が濃く、基本的にマルクス経済学の古典の解釈上の分岐に過ぎないと断じている(p.12)。
 この論文の一つの問題は、このように戦後の中国の経済学の苦闘を一言で切り捨てるところにある。
 マルクスが嫌いなら、著者の一人である林毅夫はなぜ、台湾を捨てて大陸に走ったのだろうか?と思わないではない。
 林毅夫は台湾を裏切って海を泳いで大陸に渡り、大陸で地位を得た伝説の人。しかし大陸では大陸でこの論文が示すように、マルクス経済学を叩いて、公式見解に縛られている経済学者たちを惑わすトラブルメーカーに見える。西欧経済学だけが経済学だという立場をとるなら、ここでせめて、戦後、大陸に残った西欧経済学を学んだ人たちの営為をこの論文で掘り起こして紹介すればよかったのではと感じるし、この人は大陸に渡る必要がそもそもなかったではと感じる。
 改革解放後、中国経済学は発展の春が来たという(p.12)のだが、問題はこの開放後の部分の記述が、具体的例証が何もないことだ。ベースとしては国際学術雑誌における中国問題を扱った論文数の推移、そして中国人名で発表された論文数の推移を上げるのみであるのは疑問がある(pp.13-14)。林毅夫はここで中国経済学の研究成果の事例に具体的に言及して、中国経済学を謙虚に学んでいることを示すことが、大陸への儀礼ではなかったろうか。



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