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朱鎔基の学生時代(1)1935-43

 ここでは朱鎔基の小学校から初等中学までの記述を追う。日本軍が中国に本格的に軍事侵入してきた、困難な時期。環境は良くなかったはずだが。朱鎔基は懸命に勉強している。教育関係者や政府の努力で、国民政府の学校教育制度が、苦労して維持されていたことも読み取れる。そうした環境で朱鎔基は、何を考えながら一生懸命勉強していたのだろうか。鄭義編著《朱鎔基台上台下》香港文化芸術出版社2009年, 26-31

   この皮膚は白く清浄で気質は穏やかな少年は人々に大きな印象を残している。彼は沈黙寡黙であるが、円周率を100位近くまで空んじることができた。しかし「組織能力と社会能力」は当時表すことがなかった。
 小さいときの朱鎔基が発奮努力した最大の動因は、おそらく彼の特殊な家庭環境にあった。彼は最高の成績をとって、早逝した両親だけでなく養ってくれる伯父を安心させようとした。もう一つの原因は、当時の奨学金は、ごく少数の優秀な学生だけが享受できたということであった。
 朱鎔基はまず「時中学校」で小学を学んだ。この小学は朱氏家族が起こした私立の族学で、1854年に始められた。まず、長沙市郊外の絲茅冲に設けられ、民国二十七年に棠坡(タンポウ)の朱氏祖屋に転入(遷入)した。その後また關山嘴に移った。1990年和平村口107号国道沿いに位置を定めた。同校校長の蔡海波は、時中学校は現在なお長沙県でもっともよい小学だと、声を上げた(聲稱)。
   朱鎔基が時中学校で学んだ時間については、いかなる資料も残されていないが、中学に進学した時間から推測するに、彼は1941年13歳で小学(時中学校)を卒業している。当時の小学は六年制で、そこから見るに7歳のときに学び始めた(1935年頃 福光)。しか朱家の書物の香りに親しむ習慣については、朱鎔基はもっと小さい時に触れ始めていた。朱学方老人がのちに回想するところでは、まさに朱鎔基は小さいときに《水滸伝》を読み、三十六天罡、七十二地煞の情節を暗唱した。
 ここ(時中学校)で2年学んだ後、9歳余りの時、母親の病のゆえに、朱鎔基は「滿伯」朱学方に従って長沙郊外に転居し(1937年頃 福光)、崇徳(チョンドウ)小学で学んだ。この小学は解放後すぐに業務を停止したので、現在は探すことができない。唯一の手掛かり(綫索)は校址が当時の長沙南区、現在天心区と雨花区に区画されたところにあり、学校の位置は天心区南門口大古道巷の「出入是門」付近(当時長沙に進むには南門は必ず通る路であるので、この名がついた)、ただし校址はただ一つの碑が残されるだけで学校は歴史の野風の中に消えている。
 2月28日(年号不明)長沙市委員会、方志処の楊志強老人は1934年出版の「長沙市ガイド(指南)」を査読(査閲)した。書中に簡略に記載がある。崇徳小学は1917年に開学された。私立学校で、創立人名は劉伯衡である。
 当時の教育内容は清末とあまり変わらない。「有用の学、永遠にすたれない古典(經書)を講義する」との趣旨を定め、学校は国文、から格致、博物などの(課目を)設け、民国になってからは「党義」(あるいは「公民」すなわち政治課と呼ぶもの)、軍事教練などの課程が新増された。
 教育経費の源泉にはすでに若干の変化があり、長沙市誌中の記載によれば、民国時期、政府は官立学校の経費を負担したほか、私立学校の事情をくんで補助することを奨励した。(しかし)朱鎔基が族学で学んでいるときは当然学費問題はなかったが、崇徳小学に転学したあと、学費をいかに解決したか、当時の学校で奨学金があったかなどは、いまだ調査できない。
 朱天池老人の記憶では、当時朱鎔基母子の名前で分けられた田地の年貢(歳租)は一両百擔はあった。「進学には問題なかったはず。」本当の経済困難はおそらく中学進学後、日本軍が湖南湖北に進入し、朱学方は家の人を避難させた。当時田産は抱えてゆくわけに行かず、続々と売られた。それゆえ朱家は数百年来の安定した経済源を失ったのである。
 1941年2月、崇徳小学の優秀卒業生として公益中学の入学試験を受験し、初中一年級第39班に優秀な成績で登録されている。公益中学は同じく私立中学で、中国民主革命の先駆、禹の策略(禹之謨 この言葉は歴史的な事柄を指しているのであろうが語義の詮索はとりあえず置いて進む 福光)として1905年に開学した。元の名前を「惟一學堂」という。
 この学校は長沙で一流(首屈一指)とされ、社会上流では「学びたいなら公益に進め」のことわざが伝わっている。公益中学は解放後、湖南師範大付属中学に改められ、今に至るも長沙で一二を争う名門である。
 この時抗日ののろし火はすでに中国の多くの地で燃え盛り、武漢は陥落(淪陷)しており、長沙も急を告げており、市区内のすべての大、中学校は等しく市外に移転、公益中学も長沙から遠く離れた衡陽郷下に移転していた。常寧県柏坊郷大坪地方である。13歳の朱鎔基は、背中に行李と本の包を背負って、苦しい生活(顛沛流離)の求学の生涯を歩み始めた。
   朱鎔基の同じクラスの同窓生沈譜成の記憶では、長沙から柏坊に行く道は、バス(汽車)か機関車(火車)にまずのって、衡陽までゆき、それから船に乗って湘江を遡上し、1日あまりかけて、学生たちはようやく冬休み夏休みに帰宅できた。
 公益中学の当時の教学制度はとても厳格で、とくに期末試験は大きな特徴があった。沈老人の記憶では、毎学期末、各クラス各年次で同時に、座る席を一律に同じ席、かつ同じ試験室には別のクラスの学生が座り、同じクラスの学生は交互に座った、カンニングをともかくさせないように。
 湖南師範大付属中校史事務室では、かつて訪問(聞き取り)をおこなった。朱鎔基と同じクラスだった任儼が言うには、当時学生は夜自習した。桐油燈は一辺を照らせるだけであったので、そこで半時間ごとに別の方向に回転させる取り決めだった。時間が一定でないといつも争いが起きた。その一辺で英文を黙って記憶していた朱鎔基は、身を乗り出して燈芯を引っ張り出し、両辺を同時に火をつけたところ、光の明るさは2倍になり、問題は解決し皆大喜びをした。
 皆がまた引き合いに出すのは、円周率の話だ。任儼の記憶では、朱鎔基と任儼とが争い、同じクラスでともに学ぶ周繼溪が判定を担当した。結果は任儼は40位余りを覚えていたが、朱鎔基は100位近くまで覚えており、超人的な記憶力であった。
 師大附中に保存されている記録のなかに、朱鎔基の当時の成績が詳細に記載されている。全五学期中、59科の期末文化試験、その中で100点は15回、平均は15回で平均は93.8点である。3つの学期は席次は一番であり、最後の一学期は朱鎔基は11門の必修科目(功課)のうち7つは100点であり、平均は96.27点、全クラスでトップだった。
 沈譜成のこの「色白で気質おだやかな」同窓生の印象は強かった。彼はその回顧録の中で書いている。「朱鎔基と私はクラスの成績の序列で、一位を互いに争った。今思い起こすと子供じみて思えるが、互いに付き合わないようにしていた(封閉式相處)。初等中学を卒業するとき、朱が一位で私は二位で、これは卒業証書の番号としてわかるところだ。」
 学習席次の競争は、かなり相当に激烈だった。沈老人が記者に言うには、試験が近づくたびに、同窓生が深夜まで復習するのはよくあることで、宿舎のとなりには小さな食堂があり、夜お腹が減ると、宿舎の壁には穴があり、夜、食堂から直接買うのに便利だった。
 当時の奨学金はごく少数の優秀な学生だけが受けることができた。公益中学の当時の規定は、期末試験の成績上位3名は学費2円の支払いが免除された。このお金は現在の数百元に相当する。
 1943年12月、朱鎔基は公益中学を卒業後、1944年2月からは楚怡(チュウイー)中学で学んだ。
 このときの学習については知る人は少ない。朱鎔基は、最初に湘西に行ったときに、かつて次のように回想している。私は当時新たに始められた楚怡工業高校1年級にあったとき、長沙の会戦があり、長沙が陥落してしまった。その後、国立八中が新入生を募集し、私は試験を受けて国立八中に転学した。
 (このあと朱鎔基は、国立八中とともに1944年から46年にかけて、新化、辰溪、瀘溪,吉首、さらに永綏を転々としながら2年間学んだ。楚怡では一学期しか学ぶことができなかった。1944年10月から、朱鎔基は戦時下の1938年12月に創設された創立された国立八中に転学して、学んでいる。国立八中は、戦時下で教学を維持するために安徽省により複数の学校を統合して作られた学校だったようだが、そこでの朱鎔基については、稿を改めて述べる。)

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