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『理想主義から経験主義へ』出版追記 陳敏之 1992年8月

顧准『從理想主義到經驗主義』光明日報出版社,2013年,pp.190-196 (陳敏之(1920-2009)は顧准(1915-1974)の弟。顧准について多くの貴重な証言を残している。)(写真は渋谷スクランブル交差点 2020年6月2日)
   私は運命は信じないが、実際は時に運命の存在を認めざるを得ないことがある。五番目の兄である顧准の運命は良くなくて、生涯苦労の連続(坎坷)であった。死後の運命も良くなく、不幸続き(多舛)であった。彼の遺著『理想主義から経験主義へ』は、整理されて出版されて世に問われるまでに18の春秋を要した。その間、多くの挫折困難を経て、最後に香港で出版せざるを得なかった。このすべては運命ではないといえるだろうか。
 昔の人は自然現象、社会現象に対して、当時の条件もあるが、科学的解釈を加えることもなく、ただ一概にこれを運命とした。実際は運命の背後には必然性が隠れており、解釈できないということはない。いわゆる運命の定めというのは、しばしば何か必然性の非科学的表現に過ぎない。顧准が本書で出会った運命は、自然同様解釈可能だ。
   (中略)
    1977年、その時私は時間があったので、かつて顧准から陸続と寄せられたあのメモを少し整理分類し、原文を見て書き写し装丁製本した。メモには当時廉価でごく薄い手紙用箋紙を用いた。軽くて分量は多いが、繰り返し読むには適さなかったので、(別に一部を)改めて書き写した。一面ではこれにより一部を保存するためであり、一面では自身繰り返し閲覧する便宜のためであり、もともと出版という高い望みはなかった。
 1980年初めに北京で顧准と汪璧の追悼会のあと、何人かの古い友人たちと、彼のためにメモを集めて1冊の本を記念に出版することを議論したものの、事は容易でなく実現はむつかしく、すぐにそのまま話は止まってしまった。
   (中略)
   (陳敏之によると具体的な出版の話は最初、北京の出版社が1984年暮れに、続いて上海の出版社が1987年に関心を示して、いずれも感触はよかった。ところがいずれも明確に理由を示さず、原稿を返却してきた。前者は1986年前半に返却。後者も出版の意向を当初示しながら、ほどなく無言で原稿を返してきたという。陳は、問うまでもなくその原因は明らかだった、わたしには明白におもいあたること(個中原委:それ自身に原因があるという意味)があったとしている。こうした苦労の末、上海のもう一つの出版社が、出版に積極姿勢を示し準備が進んでいたものの、1989年春の周知の問題が発生したことで、中国国内での顧准の遺著の出版はいったんとん挫。それから3年を経て、香港で出版がかなったのである。陳はようやく念願がかなった喜びをつぎのように続けている)
 現在、艱難辛苦を経て、ついに光明を見ることができた。魯迅は「白莽作孩兒塔序」において、かつて次のように言った。「人はもし友情があるなら、亡き友の文章を手にするとまるで火の塊を握ったかのように、寝食を忘れてその流布に努めるものだ」。この数年間、私の手にあったのはただの火の塊ではなく、燃え盛る劫火であった。現在私の手には簡素な装丁の遺著があるが、ついに兄の残した文字を流布することができ、心の中の喜びと安らぎは言い表しがたい。兄がこれを知れば、少し意外に思うかもしれない。というのも彼は私のために書いたこれらのメモが、なんと出版されるとは全く考えていなかったからである。
    寄せ集めた文章の出版であり、そのため書名が必要であった。『理想主義から経験主義へ』は私が同時に提出した五六の書名から反復推敲、斟酌ののちに選んだものだ。かつては『歩み出してから(娜拉出走以後)』を書名にしようと考え、王元化同志の意見を求めたところ、彼は『理想主義から経験主義へ』がずっと良いと考えた。この少し生真面目な(厳粛)書名は本書の内容にあっているし、誤解も生まないと。そこでこの書名に決定したのである。(以下略)
                        1992年8月18日

#顧准 #陳敏之    #魯迅 #王元化


 



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