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Chiang Kai-shek 蒋介石 1887-1975

By John Simkin Sept.1997 updated Jan,2020
cited from spartacus educational .com

 Chiang Kai-shek(蒋介石)は酒商人の息子で、(浙江省)奉化に1887年10月31日に生まれた。彼が子供のときに父親が亡くなり、一家は極度に貧しかった。彼は生きるために親類に預けられたが、抜け出して地方の軍隊に加わった。Chiangは優秀な兵隊で、ついには保定の軍官学校に派遣された。1907年に彼は東京の振武学校で学んだ。この時期を通じて彼は国民党の指導者となるSun Yat-sen(孫中山)の支持者になった。1911年の革命においてChiangは部隊a regimentを率いて上海を占領した。続いて反革命が起きると、Chiangは日本に戻っている。
 ソヴィエト連盟から派遣された顧問たちの支援により、国民党は中国で次第に勢力を増した。1924年にChiangは黃埔軍官学校の校長になった。
    Sun Yat-senは1925年3月12日に亡くなった。Wang Ching-Weiとの闘争ののちに、Chiangはついに国民党の指導者になった。彼は今度は党組織から共産主義者を排除する追放劇を実行した。
 1926年に中国の統合を全軍に指示した。彼は共産主義者の軍隊を打ち破り、生き残った者には中国北西の陝西への有名な長征を強いた。Chiangは南京に政府を確立した。主要な金融改革が実行され、教育体系と道路運輸はともに改善された。Chiangは1934年に新生活運動を始めたが、それは共産主義者の理念と戦うために、伝統的儒教の価値観を対置したものだった。
 1937年に日本軍が中国の心臓部を侵略すると、Chiangは首都を南京から重慶に移さざるを得なかった。日本に対して彼は、沿海部の諸地域と主要都市のほとんどの支配権を失った。日本軍との対抗のために、彼は毛沢東および共産主義者の軍隊との協力を承認した。
 真珠湾爆撃のあと、Chiangとその政府は合衆国政府から相当の財政的支援を受けた。中国、ビルマ、そしてインドのアメリカ軍トップであったJoseph Stillwell将軍は、この政策に反対であり、Chiangは無能なinept指導者であり、現代戦争の基礎に無知だと論じた。Stillwellは共産主義者に融和的(pro-communist)だと非難され、1944年10月彼は合衆国に召喚され、Albert Wedemeyer将軍に置き換えられた。
 第二次大戦の間、共産ゲリラは朱徳や林彪により良く指導された。日本軍が降伏するや、共産軍は国民党軍と戦争を始めた。共産主義者は次第に中国を支配し、1949年10月1日、毛沢東は中華人民共和国の建国を宣言した。
 Chiangと彼の軍隊の生き残りは、Formosa(台湾)に逃げた。彼の自伝Summing up at Seventyは1957年に出版された。Chiang  Kai-shekは1975年4月4日に亡くなった。

Su Kaiming, Modern China(1985)引用
 自身の軍事本部を江西(省)の首都である南京に設けたのちに、蒋介石は武漢にある革命的民族主義者の政府の権威を拒むdefyに十分強力になったと考えた。武漢では、国民党の(孫中山夫人を含む)左派と共産主義者が優勢であった。1927年1月、彼は政府に、武漢から彼が完全に支配している南京に移ることを求めた。それにこたえて、武漢の国民党中央委員会は、党、政府、軍におけるChiangの指導権をすべて取り去り、彼が全権を握ることを防ごうとした。
 上海の銀行家、様々な軍閥warlord政府を代表する政治家、そして外国の帝国主義者の代理人たちが、彼を助けるために南京に集まった。秘密の会議で、彼は、共産主義者とソビエトユニオンと手を切り、貧農と労働者を弾圧することを条件に6000万中国元の貸付を約束された。Chiangは直ぐにこの条件を受け入れた。
 1927年4月12日、下界のGreenGangからやってきた数千のならずものthugsが国際居住区から労働者の格好をして現れて、労働者の武装隊を襲撃した。労働者の間の内部的不一致dissensionへの反対を装って、Chiangは彼の軍隊に、労働者の武装解除と総労働組合本部の占拠とを命じた。下界の人物が構成するニセの組合がただちに作られた。翌日、上海の労働者は大集会rallyを開催して、彼らの武器の返却を求めた。蒋介石が反革命に転じたことに気づかないまま、彼らは北部派遣軍本部に請願に向かい、機関銃でなぎ倒されることになった。数百人の労働者の血が、雨で洗われたばかりの上海の道を赤く染めた。


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