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中国銀行史 1912-49

戴建兵等《話説中國近代銀行》百花文藝出版社2007年pp.1-6

p.1    近代中国にもっとも影響した銀行は中国銀行ではなかろうか。
1912年2月、南京臨時政府は大清銀行を中国銀行に改組、この時中国銀行は官と商が一緒に行なっている銀行だった。普段は政府の出納役(賬房)を務めていたが、政局の影響の困難な状況(困境)を避けようと、自主経営に努め、何度も(几經)実現に努力した。北洋政府の統治が終わると、中国銀行本店(総部)は政治の中心が南に移るとともに北京から上海にうつった。1928年に国民政府は別に中央銀行を設立。中国銀行は国際匯兌銀行に改組され、改組後の中国銀行の実権は商人株主の手中にあり、独立自主経営は続き、中国銀行は銀行界の帝王(覇主)の地位を保持した。1935年に国民政府は金融独占政策を実行し、官の保有株を増やし、ついに中国銀行を統制するに至った。1937年に(対日)抗戦は勃発し、中国銀行本店は西に移転し、積極的に抗戦を支持した。1942年に四聯が成立し、四行の専業化分業を実行したとき、中国銀行は再度増資改組され、専業の国際貿易匯兌銀行となり、中国銀行の業務範囲は急激に縮小され、中央銀行への落後が始まった。1945年の抗戦勝利後、中国銀行本店は上海に戻され、壮大な官僚資本の工具となった。1949年に前後して香港、台湾に移動し、国民政府政権の完全な消滅(覆滅)に伴い、中国銀行の歴史命運はついに終わりを迎えた。1912年の中国銀行設立から1949年新中国による接収管理まで、前後合わせて37年間は4つの段階にわけることができる。それぞれ
p.2  誕生、発展、没落(衰落)、滅亡を表している(なお中国銀行のHPを開けるとかなり詳細に同行の歴史がつづられており、以下で記される内容はそれに比べ簡略である。要点は時代に合わせた中国銀行の職能の変化であるが、同時に、民営化―独立経営の方向と、官営化ー政府所有の方向とがせめぎ合いという視点を示しているのはおもしろい。―福光 以下を参照 中国銀行HP   中行歴程 )

 第一段階:1912-1928年
 1912年2月、南京臨時政府は大清銀行を改組し、中央銀行の性質を具備した中国銀行とした。この時、中国銀行は官商合わさった性質の銀行であり、1912年から1928年、行政の指導は政局の変化に従い頻繁に変更された。中国銀行の今後の安定した発展のため、一つの近代化された銀行となるため、中国銀行は主要には以下の四つの方面を中心に活動を進めた。
 まず独立経営を指導思想とすることに努めた。この17年軍閥は脅して進めることがあり、行政の指導は政局の変化に従い頻繁に変更され、政局の影響は免れがたかったが、中国銀行は1913年に民二則例(民国二年規則ー中国銀行HPによれば同行を株式銀行と規定する規則で同行内の指導集団間の争いを反映)を制定し、商人株(商股)を拡大した。1917年に民六則例に修正され、商人株がふやされ、商人株が主要となることが図られた。1917年には除恩元総裁に反対、1926年には安福系の則例に反対する争いがあり、20年代には蒋介石との多くの闘争などがあった。多くの闘争と努力により、中国銀行の商人株株主は、しっかりと中国銀行の実権を掌握、独立経営の方針と思想は比較的良く貫徹されるようになった。
 次に信用(信誉)の重視に努めた。銀行信用こそ命として中国銀行が国家信用との印象を維持すること(維護)、中国銀行はこのために多くの努力を行った。1916年に中国銀行上海支店が袁世凱の兌換停止命令を拒んだこと。1917年北京で発行された銀行券(京鈔)を整頓し、1923年に中国銀行発行準備の公開検査、1923年領用兌換券暗記券制度(この内容は不明ー福光)の創設したことなど。一連の重大措置により中国銀行は国内外に良好な信用を樹立した。
 さらに鋭意革新に努め効率を高めた。中国銀行は仕事の効率を高めるため、同行始まって以来(自成立伊始)人事管理上、大清銀行のよくない習慣を除去(摒除)、道徳規律と新たな風紀の樹立に傾注し、西欧にならって、会計制度改革を進め、専門の会計機構を設けた。
 最後に中央銀行の職能を積極的に履行し、その主要な業務活動とした。国庫を代理する方面では、軍用券の受取兌換を行い、税金の代理収納を行い、外債の利息の支払い償還の経理を行った。政府の公債事務を支援し、多くの法律法規を制定した。たとえば
p.3「紙幣取締り条例」「国幣条例」など。銀行業務は業務が増加、預金貸付為替業務は全面に発展、業務委員会が設立され、外国為替業務の事務処理をおこなった。
 17年にわたるしっかり続けられた闘争と努力の結果、中国銀行の実権は商人株株主の手中にしっかり握られた。この段階での中国銀行はなんとか独立した発展を求め、安定快速の発展を得た。1928年に至ると、中国銀行の営業成績は銀行の中で首位であり、交通銀行などその他の銀行のはるか先を先導していた。

    第二段階:1928-1937年
 1928年に北洋政府の統治が瓦解し、南京国民政府が成立し、中国銀行は政治の中心が南に移ったことに適応するために、ついに本店を上海に移転した。国民政府は別に中央銀行を設立、中国銀行は国際為替交換銀行(匯兌銀行)に改組された。
   中国銀行はなお銀行信用(信誉)の維持保護を、銀行存立の基本とした。総経理張嘉璈の指導に下、固くたえず努力し、積極的に国際為替交換業務を開拓する考えのもと、外国銀行による中国国際為替業務と為替相場の独占を打破した。華僑の為替送金業務に努力し、海外華僑の信頼を高めた。物価抑制に積極的に関与し、貨幣価値を安定化させた。国際貿易が発展する方法を考え、外国為替収入をふやし、その支出を減らし、対外支払いを保証した。一連の努力により、中国銀行の信用は多いに増加、預金、貸付業務は急激に成長した。
 中国銀行は経済建設を支持することを、同行の指導思想とした。金融の基礎は経済である。張嘉璈が経理を担当して以後、中国銀行は経済を発展させる仕事を大量に行った。中国銀行は、鉄道、道路、航運など交通事業を積極的に支持し、国民経済のインフラ(基礎設備)建設を促進するため、大量の貸付を提供した。民族工商業の発展を全力で支持し、「国産製品会社(国貨公司)」を発起組織し、国産製品の生産と消費を促進した。農業貸付を開始し、先頭に立って資金を農村と内地に振り向け、農村経済の復興と農業生産の発展を支持した。輸出貿易を全力で支持、国家の為替兌換状況を改善した。同業者を支持、団結させ、壮大な民族の金融実力とした。保険業務を振興開始し、投資、信託、貯蓄業務を開拓し、多様な形式多様な道筋で経済事業繁栄を支持した。
p.4   需要そして可能性から、海外僑胞の経済事業に貸付を行い支持した。このほか中国銀行は国民政府が公債を整理するのを助け、幣制を改革、経済を安定化させた。中国銀行の苦心と努力により、国民経済発展は相当程度促進された。同時に自身の業務もまた発展し、その金融界における地位と影響力も高まった。
 張嘉璈が職務にあったときに、中国銀行建設は世界的な近代化された銀行をめざすものであった。不断に西欧の先進的経験を吸収し、併せて我が国の実際と結合し、不断に改革創新した。中国銀行が経営管理を革新することは、業務を発展させるには、通らねばならない道だった。1929年に総処機構の調整を進め、両部両室体制を実行した。1931年12月に「中国銀行組織大綱」が制定され、さらに総処機構に対して、比較大きな大改革を進行させ、「両総四室」管理体制を実行した。1928年に経営管理思想と業務の方向を改めた。もともとは主要には国内業務を主要に処理するところから、内外ともに重視へ発展すると。業務方針は政府機関業務を主とするところから、国際為替兌換業務と民営輸出企業業務を主とするところに転換した。(会計項目の)考査(稽核)と調査を強化、経済刊行物を編集、区域管理メカニズムを実行、国内外の機構を積極的に開設した。華僑向け為替管理を強化し、西欧に倣って会計制度を改革し、複式貸借記帳法を用いた。人事制度を完全なものにし、効率をさらに上げ、カウンタ業務を強化し、優れたことは褒められ悪いことは罰せられるを実行するなど。以上の多くの領域の改革探索を通して、中国銀行は業務とサービス水準を大いに高め、国内銀行の覇者となった。
 この段階において、東北は敵に占領され、業務機構は激減した。中国銀行は精神を奮い立たせて(勵精圖治)、改革を行い、積極的に時局の変化に対応し、独立自主経営を行い、安定的発展を持続できた。(これは)抗戦爆発前の2年中国経済の全面発展は堅実な基礎を固めさせた(奠定了)。

    第三段階:1937-1945年
 1935年国民政府は官股の増資により、再度則例を改め総経理
p.5  張嘉璈などの人を中国銀行から追い出して、中国銀行を政府監督のもとに完全に統制した。1937年抗戦が爆発、国土の多くが相次いで敵に占領された。中国銀行は国が第一として(以囯爲重)、積極的に業務を拡大、政府の抗戦を支持した。
    中国銀行は長期抗戦を支持するため、後方の経済を発展させるため大量の有益な仕事をした。本店を西に移し、機構の調整を行った。大後方の金融網の建設に積極的に参加、西南、西北に業務機構を建設した。外国為替管理を強化し、海外機構を増設した。法幣価値を維持し、為替相場を平衡させた。政府が金融を安定化させるのを助けた。資金を集め運用することで、後方の生産建設などを発展させた。
 この時、中国銀行はすでに政府の統制下にあり、国民政府は金融独占を実行していた。四連縂処を設立し、1942年7月、四行は専業に分業となり再び官股が増やされ、中国銀行は完全に政府の統制下となった。中国銀行は政府が特許した国際為替兌換銀行から国際貿易の専業銀行に変えられた。中国銀行の業務範囲は縮小され、紙幣の発行を通じ、吸収と貸付による放散(發放),大量の紙幣発行、中国銀行の消極的影響は日増しに強まった。

 第四段階:1945-1949年
 1945年抗戦勝利後、中国銀行本店は上海に戻った。この段階において、中国銀行は少し有益な仕事をした。:敵の資産を接収管理した。機構をさらに増減させた。貸付を強化し、経済回復を支持、生産を発展させた。外国為替管理を強化し、海外華僑の為替業務を処理した。これらの仕事を通じて一定の積極的作用をした。
 この段階において、中国銀行は完全に官僚資本が略奪した人民財富の用具となった。この時、中国銀行の実際工作は、四連縂処が指示(安排)するはずであった。中国銀行は名義上政府が国際貿易を発展させる専業銀行である。(しかし)業務上は自主運営(自主進行)で事実上ただ預金を受け入れ、為替兌換業務を行い、華僑の為替の支払いを行い、国際貿易に関する具p.6  体事務を処理できただけである。
 (中略)
 創業から37年の歴史を見ると、中国銀行は三つの職能の変化があった。1912年から1928年以前は、中国銀行は南京臨時政府と北洋政府の中央銀行であった。1928年に国民政府が別に中央銀行を組織し、中国銀行は政府特許の国際為替兌換銀行に改組された。1942年後、国民政府は四連縂処の設立により、再度、中央銀行、中国銀行、交通銀行、農業銀行の四行の業務を再区分し、中国銀行は国際貿易専業銀行に発展させられた。

   新中国建国以前中国金融史 

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