カー『ロシア革命』1979
E.H.Carr, The Russsian Revolution From Lenin to Stalin, 1917-1929, Macmillan:1979 塩川伸明訳『ロシア革命 レーニンからスターリンへ 1917-1929年』岩波現代文庫2000年 ここでは1917年から1920年までの記述を抜き書きする。1917年のロシア革命について定評のある記述である(写真は国立国会図書館)。
訳書p.6
全ロシア・ソヴェト大会ー常設執行委員会をもった中央ソヴェト組織を創設しようという初の試みーが(1917年 補語)6月に開かれたとき、800名以上の代議員のうち、エスエルは285名を数え、メンシェヴィキは248名で、ボリシェヴィキに属するものは僅か105名にすぎなかった。
7月に臨時政府は、彼らに対して、軍内部での破壊宣伝とドイツ側のスパイ行為の過度で弾圧策を取ることを決定した。何人からの指導者が逮捕された。レーニンはフィンランドに逃れ、
この表舞台からの強いられた退去の期間中に、レーニンは彼の著作のうちでも最も有名で、また最もユートピア的なものの一つである『国家と革命』-マルクスの国家論の研究―をものしたのである。マルクスは、プロレタリア革命によるブルジョア国家
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の破壊を説いただけでなく、革命の勝利とプロレタリアート独裁の過渡期の後には国家が衰退し、最終的には死滅すると期待していた。レーニンによれば、勝利のときにプロレタリアートが必要とするのは「ただ死滅しつつある国家、即ち直ちに死滅し始め、死滅する以外にないようにできている国家」なのであった。国家は常に、階級支配と抑圧の道具である。階級のない共産主義社会は、国家の存在と相容れない。レーニンは彼一流の警句で、次のように要約した。「国家が存在している限り、自由はない。自由が存在するときには、国家は存在しないであろう」。・・・この著書では、党のことはほとんど触れられていなかった。
9月の頃までに、ボリシェビキはペトログラードとモスクワのソヴェトにおいて多数派を獲得していた。レーニンは、幾分迷った後に、「すべての権力をソヴェトへ」というスローガンを復帰させた。
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10月25日(太陽暦の11月7日)工場労働者を主力としてた赤衛隊が市の中枢部を占拠し、冬宮へと進軍した。それは無血の革命であった。臨時政府は、無抵抗のうちに崩壊した。数名の大臣が逮捕され、首相のケレンスキーは国外に亡命した。
この蜂起は、第二回全ロシア・ソヴェト大会と時を同じくするように計画されており、その日の夜にこの大会は開催された。今回は、ボリシェヴィキが全代議員649名中399名という多数を得て、議事進行を司った。大会は臨時政府の解散と権力のソヴェトへの移行を宣言し、満場一致で三つの主要な布告を採択した。そのうちの最初の二つはレーニンによって提出されたものであった。そのうちの最初の二つはレーニンによって提出されたものであった。第一の布告は、「労働者・農民の政府」の名においてすべての交戦国の国民と政府に対し、無併合、無償金の「公正かつ民主的平和」のための交渉に入ることを提議し・・・戦争終結をうながすよう訴えかけていた。第二の、土地に関する布告は、エスエル作成の文案を含むものであったが、それは社会化された農業というボリシェヴィキの長年の理論よりもむしろ
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むしろ農民のプチブル的願望に応えたものであった。地主の土地所有は、無償で廃棄された。「普通の農民と普通のコサック」の土地だけが没収を免れた。私的土地所有は永久に廃止された。土地利用権は「自分自身の労働によって土地を耕作したいと願うロシア国家の(性別を問わず)全市民」に与えられ,鉱業権やそれに付属する諸権利は国家に委ねられた。土地の売買・賃貸および賃労働の雇用は禁止された。これは、自分の土地を自分自身と家族の労働で耕し、主として自分たちの欲求を満たしている小独立農民の憲章であった。土地問題の最終的解決は、来るべき憲法制定会議まで保留された。第三の布告は、この会議の議長をつとめたカーメノフによって提案されたが、それは憲法制定会議の開催まで、全ロシア・ソヴェト大会とその執行委員会の権威のもとに国を統治するための臨時労農政府として、人民委員会議(ソヴナルコム)を設立するものだった。
ソヴェト大会のもっと正式な布告においては「国家」と「社会主義」の概念は背景に退いていた。
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これらの布告のどれも、革命の目標ないし目的としての社会主義に言及していなかった。その範囲に関してと同様、その内容に関しても将来に決せられるべく残されたのである。
憲法制定会議の究極的権威に対して敬意を表する態度が、異論なく受け入れられていた。2月から10月に間、臨時政府もソヴェトも、新憲法を起草するための伝統的な民主的手続きである憲法制定会議を要求していた。そして11月12日が選挙の日と決定されていた。・・・選挙民が圧倒的に農村的であったことから予想されるように、投票の結果、絶対多数がエスエルのものとなり、520議席中267議席を占めた。ボリシェヴィキは161議席を得、残りは多数の小グループからなっていた。1918年1月に議員が集まったとき、労農政府はペトログラードに確固として打ち立てられており、二か月前の農村地帯の混乱した気分を代表するような団体のために、この労農政府が退位するなどとは考えられなかった。
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この会議は多くのとりとめのない熱弁を拝聴して、その夜遅く閉会となった。そして政府は、この会議の再会を実力で阻止した。これは決定的瞬間であった。革命は、ブルジョア民主主義の慣習に背を向けたのである。
当初、西欧ではロシアの革命政権が数日かあるいは数週間以上存続できると考えた人は稀であった。・・・労農政府の法的文書は、ペトログラードや他の二、三の大都市以外にはほとんど拡がっていなかった。ソヴェトの中でさえ、ボリシェヴィキは未だ満場一致の支持を確保していなかった。また、全ロシア・ソヴェト大会という、唯一の主権的な中央政権が、全国に蔟生している地方ソヴェト
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や、工場において「労働者統制」を執行している工場委員会や、あるいは戦線から故郷へと今や群れをなして帰りつつある数百万の農民たちによって、どこまで承認されるかということも、まったく不確実なことであった。
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トロッキーは不承不承ながらレーニンに与して、ウクライナやその他の旧ロシア帝国領の広大な地域の放棄を含む、レーニン自ら「屈辱的」と認める講話の受諾に賛成投票し、外務人民委員の職を辞任した。この(ブレスト=リリトフスク 訳注)条約は1918年3月3日に調印され、ドイツの進撃はやんだ。(→革命の国際主義原則からの堕落だとする批判があった。p.15,23)
(1918年2月23日 赤軍の創設)
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トロッキーが軍事人民委員に任命された。彼は現実主義者であったから、軍が未熟で未訓練な招集兵によって建設されるなどとは考えなかった。緊急事態への彼の最初の対応は、新規の軍隊を訓練するために、公的には「軍事専門家」と呼ばれた職業軍人、旧帝国軍将校を徴募することであった。この便法はすばらしい成果を収めた。1919年はじめまでに、このような将校が3万人徴募された。かろうじて1万の訓練兵を集めた1917年の赤衛隊は、内戦が激烈を極める中で、500万を数える赤軍へと成長した。
(1918年11月11日の休戦は新たな局面を招いた。)
p.18
連合軍は、一つには厭戦気分から、またもう一つにはモスクワの労働者政府への大なり小なり大っぴらな共感のせいで、戦闘続行の意欲がまったくなかった。
p.19
この頃(1919年秋 福光補語)までに赤軍は、装備はよくなかったものの実戦能力のある戦闘部隊となっていた。様々な白軍は、彼らの奮闘を調整することもできなければ、彼らが活動している地域の住民の支持を獲得することもできなかった。
p.20
(1918年3月党大会決定による党名変更 ロシア社会民主労働党からロシア共産党(ボリシェヴィキ)へ。
1919年3月初め 共産主義インターナショナル(コミンテルン)第一回大会 19ケ国の党あるいはそれに近いグループなどが集まる ジノーヴィエフが議長 トロッキー作成の宣言 レーニン作成のテーゼを採択)
p.24
(ポーランド軍の侵攻1920年4月末 赤軍による反撃は逆にポーランドへ侵入1920年8月初め この高揚のもとで)1920年7月19日 コミンテルン第二回大会
pp.25~26
(レーニン ポーランドでの進軍を支持 ポーランドの労働者はピウスーツキの民族的抵抗を支持 赤軍は歴史的大敗 10月12日休戦協定)
p.27
(ロシアの農民は 革命を他国に輸出するために戦う気はなかった。1920-21 中央ロシアの農民の騒擾)安全と安定がこの時期に最も必要なものであった。
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1918年4月、数百人の無政府主義者がモスクワで逮捕された。・・・1918年の夏の間に、二人の著名なボリシェヴィキ指導者がペトログラードで殺害され、モスクワではレーニンが狙撃された。
経済の病いに対するボリシェヴィキの最初の治療薬は、平等な分配、工業と土地の国有化、労働者統制といった一般的原則の宣言以上のものではなかった。革命の初めの数ケ月間に、多くの工業企業が、あるときは最高国民経済会議に責任を負う国家機関によって、またあるときは労働者自身によって接収された。農業に関しては・・・エスエルの綱領を採用して、土地の「社会化」とそれを耕作する人々への平等分配を宣言した。実際に起きたことは、土地所有貴族の大小の地所や、ストルイピン改革によって土地を集める
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ことができた、一般にクラークと呼ばれる富裕農民の耕作地を、農民たちが没収して自分たちの間で分配したということであった。このようなやり方のいずれも、生産の衰退を阻止はしなかった。金融に関して、銀行が国有化され、外国債務の支払いが拒否された。しかし、通常の税を徴収したり、国家予算を作成したりすることは不可能であった。日々の必要は〔紙幣]印刷機に頼ることで満たされた。
六か月間、政府はその日暮らしのありさまであった。
(1918年夏)食糧が第一優先事項であった。都市と工場の労働者は飢えていた。5月、農村を訪れ、穀物を退蔵していると信じられたクラークや投機家ー「農村ブルジョアジー」-から穀物を徴発する「食糧分遣隊」を組織する命令が発せられた。
革命初年の農民の自然発生的行動の結果は、ぎりぎりの水準で生活する夥しい数の小規
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模耕作者への土地の分割、すなわち耕作単位の数の増大と規模の縮小であって、これは農業の効率化にも都市への食糧供給にも全く貢献しなかった。
貧農も、モスクワで党指導者が期待したように、クラークに対抗する政府の同盟者として活動することをあてにできなかった。
p.33
コルホーズ ソフホーズ
それらは農民の抵抗にあってあまり進捗しなかった。
p.34
工業管理
時々、党員が最高地位に配されることもあったが、その地位を実効的にするだけの経験に欠けていた。上級管理者・経営者・技師はたちまちその仕事が不可欠であると認められるに至ったが、彼らは「専門家」と呼ばれ、特別俸給と特権が与えられた。・・・赤軍の需要が最優先であった。・・・工業の破滅的衰退・・・おそらく最も雄弁なのは、大都市の人口減少だろう。モスクワは人口の44.5%、・・・ペトログラードは57.5%を失った。健康体の人々の一部は赤軍に徴発され、そして大量の人々が・・・(食糧を求めて)農村へ流出した。
p.36
あらゆる工場における選挙制の工場委員会による生産の「労働者統制」は、革命の最初の興奮に刺激されて権力奪取に重要な役割を演じていたが、たちまち無政府状態をつくりだす手段と化した。
レーニンはのちに、工業におけ
p.37
るいわゆる「単独責任性」導入のためのキャンペーンを支持したが、これはまさに「労働者統制」とは正反対のものであった。
p.35
分配の問題・・・私的商業を「全国家規模での物資分配の計画的システム」でおきかえるという、党綱領で宣言された目標は、はるか遠くの理想であった。・・・都市における配給と固定価格を実施する計画は、供給の不足と有効な管理の不足に直面して崩壊した。いやしくも商業あるとするなら、それは非合法に行われた。
p.36
内戦の危機的な年に、赤軍、軍需生産に携わる工場、都市住民の不可欠の必要を満たす方法は、徴発という粗野な方法であって、それは軍事的必要によって余儀なくされ、かつ正当化されたのである。
p.42
内戦中ともかくも遂行されていた徴発政策は、破綻をきたした。農民は自給経済へと後退し、当局に没収されてしまう余剰を生産する刺激をもたなかった。1920-21年の冬の間、中央ロシアでは広範にわたる農民の騒擾が起きた。
1920-21年の冬の間に作成された新経済政策の本質は、生産高のうちの決められた割合の国家機関への引渡し(いわゆる「現物税」)の後は、残余を市場に売りだすことを農民に許すということであった。このことを可能にするために、工業、特に職人的な小工業に対して、農民が買いたいと思うような商品を生産するように推奨しなければならなかった。これはまさに、戦時共産主義下の大規模重工業重
p.46 視の逆転であった。私的商業が復活を許されねばならず、個々では協同組合・・・に大いに依存した。最後に、これらすべては、ルーブリの急落の歯止めと安定通貨確率を含意していた。新経済政策として知られる、特に農民への譲歩を強調した一連の政策は、中央委員会によって承認され、1921年3月の歴史的第10回党大会にレーニンによって提出されることになった。
その前夜に・・・クロンシュタット要塞の基地のある赤軍艦隊の水兵が、労働者と農民のための譲歩とソヴェトの自由な選挙を要求して反乱を起こした・・・党の政策動向に不満・・・を反映・・・流血の戦闘の後に反乱軍は制圧され、要塞は奪還された。
p.47 党の威信と信頼への重大な一撃であった
(ネップの議論はおざなりだったが、労働組合をめぐり議論が白熱した)
p.48
レーニンは、党を揺るがした「熱病」について語り、党には「討論・討議という贅沢」の余裕はないと語った。・・・論争点は全党員によって討議されうるが、独自の「政綱」をもったグループの形成は禁止された。一旦決定がなされると、それに対する無条件の服従が義務とされた。この規則の侵犯は、党からの除名にまでなる可能性があった。
p.49
レーニンは内戦たけなわの頃「党の独裁」を高唱し、「労働者階級の独裁は党によって実現されると」と主張していた。第10回党大会によって引き出された論理的帰結は、党中央機関への威信の集中であった。
党内反対派の禁止はネップ導入に伴った危機状況の所産であった。同様の過程が論理的必然に、革命後を生きのびた二つの左翼野党―エスエルとメンシェヴィキ―をも襲った。1918年1月の憲法制定会議解散は・・・一党制国家の基礎をおくものであった。
1918年3月のブレスト=リトフスク条約調印は、エスエルとメンシェヴィキの双方から激しく非難され、左翼エスエル閣僚の辞任を招いた。エスエル
p.50
はあからさまに政府と対立し・・・1918年6月14日エスエル右派とメンシェヴィキは「極悪反革命家」との連携の廉でソヴェトから追放された。
(内戦は、二政党の立場を最初は幾分改善した。二政党は白軍、連合軍諸政府を非難したこともあり)メンシェヴィキの追放は1918年11月に、エスエルのそれは1919年2月に撤回された。
両党の支持者大衆絶えず当局に迫害され、分解し始めた。内戦が終わると、連合や妥協をこれ以上続ける根拠は亡くなった。党中央委員会を含む20
p.51
00人のメンシェヴィキがネップ導入前夜に逮捕されたと言われており、こうしたメンシェヴィキの絶滅は、与党ボリシェヴィキ党内異端の抑圧と時を同じくした。これら逮捕者の多くは後に釈放され、指導的メンシェヴィキは国外へ出ることを許された。しかしエスエル指導者の頑強な中核は、1922年、反革命活動の廉で裁判にかけられ、死刑を宣告される(この宣告は執行されなかった)か、長期の禁固刑を宣告されるかした。
経済経営用語辞典(ロシア革命 で採録)
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