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2.3 合作化運動に影響した統購統銷

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)
(写真は心光寺石仏。碑文の年号は寛永1624-45 、慶安1648-52、明暦1655-58、寛文1661-1673など。右端の寛永19年1642年が、この画面上の碑文では最も古い。前年の寛永18年1641年に桶町の大火があり400人以上の死者がでている。この石仏はそれを慰霊するためのものかもしれない。心光寺はもともと寛永5年1628年に本郷丸山田町に開かれ、田町が御用地として接収され、承応2年1653年に現地に移されたとされる。傳通院の末寺である。(資料:猫の足跡 心光寺)。現在の本堂は昭和3年のものとされるので、二次大戦時の空襲被害を免れているのであろう。多くの石仏が存在する。入り口左の六地蔵については、「東京の六地蔵めぐり」で紹介されている。この寺の石仏の多くについてはまだ十分検討されていないようだ。)  

p.38  1953年にもう一つの大事件が起きている。統一購入統一消費(統購統銷)の決定実施である。1952年は国民経済の3年回復の最後の年で、農村改革は基本終わり、農業生産方面は1952年は1949年比で農村の収入は47%、糧食生産が36%、その他も生産もまた素晴らしく発展した。
    しかしその1952年に糧食の購入消費に問題が出現した。糧食生産量3278億キログラム(斤は公斤とみなした)は戦前の最高水準に匹敵するが、いくつか大きな変化が生じていた。一つは都市人口の増加である。1949年に5769万人、1953年には36%増えて7826万人となった。都市の消費量の増加は、主として工業就業人口の増加である。二番目には農村に返して消費される糧食が増加した。1億の農村人口の糧食が足らないとすると、毎年300億キロ余りが返され消費される必要がある。農民の糧食消費が増加し、統計によれば、一人当たり消費は440キロに達したが、これは土地改革後、数十キロ増えている。(中略)
(上げられている理由はまず都市人口の増加。農村への売戻し食糧の増加。背景として農民の食糧消費量増加。農家に分散貯蔵される食糧の増加→市場出荷量減少。農民の売り惜しみ 商人の買いだめ売り惜しみ 1952-53食糧年度 私営食糧商が市場食糧の30%購入 政府買い上げは26% 市場価格が公定価格の20~30%以上の高値になる)

統一購入統一消費政策
 こうした情況に直面して、陳雲は計画的な購入と消費の実行の可否を提案した。すなわち統一購入統一消費(統購統銷)、農村での統一購入、都市での統一消費を提案(提出)した。
 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.76 彼は1953年に連続して数回の会議を開いた。・・・(食糧部長の)章乃器はあまり賛成しなかった。私は、買い上げを「税額による割り当て買上げ」に改めることができれば、市場を閉鎖せず、私営商人をなくす必要もないし、生産は発展しているので、数年経てば農民は食べ飽きて、多く売ることになると建議した。陳雲はよいとも悪いとも言わなかった。彼が会議を開くのは、多方面から異なった意見を聞くためであり、それから取捨を決定する。これは、彼の一貫した作風である。・・・のちに陳雲は「税の徴収では・・・あんなに重い割当では、農民も受け入れられない。私営食糧商を消滅させないと、食糧に保証がなくなり、農民をコントロールできない。そのために、計画買上げ、計画売渡しの実行を準備したのだ」と語っている。のちに名称は「統一買上げ・統一売渡し」<統購統銷>に確定された。国家が統一的に買い上げ、統一的に売り渡す(銷售 賣出商品)との意味である。食糧市場は閉鎖され、私営の食糧商の参加は禁止された。

 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.78 統一買上げ・統一売渡しは、1953年末に誕生したが、農業合作化の高まりが到来する前の1年余(1955年)の間に、この制度は、すでに農村工作の一つの中心になっていた。統一買上げ・統一売渡しは、合作化運動と付随し合い、終始を共にしたが、また、全体の合作化運動に対しても極めて大きな影響を与えた。

 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.78 (1953年と1954年)この両年には、多くの強迫命令や過剰買上げ(過頭糧)が行なわれ、国家と農民の緊張関係を激化させた。・・・(1955年春)当時の余剰食糧買上げについては、「多く残れば多く買い、少なく残れば少なく買い、残らなければ買わない」と言われた。しかしながら、実際には、農民は、政府は残った量の全部を買い上げてしまうと感じていた。このため、党中央と国務院は、緊急指令を出して、「農村情況が緊迫している主要な原因は、農民が統一買上げに対して底なしと感じていることである。…」と指摘した。

白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.79 毛沢東は、すぐに、「食糧の買上げ量をさらに引き下げ、”社会主義(つまり合作化 である 福光)と交換する”」ことを決定した。しかしながら、農民は依然として政策を信頼しておらず、食糧を多く生産しても国家の買上げが多くなるだけで(これは買上げ量が増えたので正しい)、自分には分け前がないし、いわゆる「3年変えないこと」は「3年経てば変える」ことであることを心配していた(事実1958年は大量買上げとなった)

白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.79 以下は統購統銷への優れた分析だといえる。)食糧が不足していた時代は、統一買上げ・統一売渡しも確かに効果があり、実施する必要性もあった。しかし年数がたつにつれて、悪い点も次々に発生してきた。
第一は数量のコントロールが効かず、余剰食糧ではなく、農民の飯米の一部まで買い上げた年度も実際にあったことである。・・・
第二は、政府が定めた買上げ価格は、生産に対する刺激効果がなく、しかも地区間の価格差、品質、品種の価格差を反映させることが難しかったので、食糧の品質とコスト比較に悪影響を与えたことである。
第三は、政府の食糧に対する独占が連鎖反応を引き起こし、統一買上げの対象はやればやるほど広がっていったことである。・・・私営商人、農民の自由市場、長距離輸送販売も取り消され、露天商人、行商人の就業機会も喪失させられた。
第四は、農業生産合作社が買上げ任務を担い、その行為が国家化したことである。食糧生産と食糧買上げの計画を達成するために、労働力と作付け面積をコントロールせざるを得なくなり、各種の家庭副業を制限した。
農村漁村文化協会p.80 1954年から、上述した悪い結果が逆に合作化と集団経済の運営に悪影響を与えるようになり、ついには、集団経済は、多くの面で農民をコントロールする道具になってしまった。農民の目からすれば、集団経済は、農民自身の組織ではなくなってしまったのである。

農村漁村文化協会p.80 ソ連の集団農場は、国営農場に似ているが、国家が社会保障費用の一部を負担していた。中国の農民はこれほど多いが、社会保障は一度もやったことはなく(一時辦不到)、農業経営の決定は国から降りてくるが(そこはソ連の集団農場と同じだが 福光)、リスクが生じても、農民自身が負担しなければならなかった。

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