銭庄・票據・庄票 中国経済用語
馬長林『中国古代金融』中国国際廣播出版社2011年pp.8-12(写真は東京大学本郷キャンパス 2019年12月23日)
p.8 一 銭庄の発生(興起)と発展
銭庄または錢舖,錢店と称するものは清代初めにすでに出現している。清代の貨幣流通は、銀(銀両)と銅銭(制銭)を中心とするもので、市場での購入で、大額(大銭)には銀を用い。小額には銅銭を用いた。早期の銭庄は市場の需要に適応して、経営の中心は銀と同銭の交換(兌換)であり、一般の商人や誰にであれ、銀を銅銭にあるいは銅銭を銀と交換したいとき、皆、銭庄のところに行き兌換した。清代康熙朝以後、商業の比較的発達した都市では、どこでも銭庄が設けられており、かつその数はますます多かった。たとえば北京では、康熙年間から道光10年、開設された銭庄は389軒に達し、18世紀末の上海では、なお120軒余りを数えることができた。清代の乾隆後期、商品貨幣経済の発展に伴い、銭庄の兌換機能は次第に貨幣の信用貸付の機能に転化し、貨幣の信用貸付主とする近代金融機構になり始めた。
19世紀の半ばから一部の銭庄は預金(存款)の受け入れと信用貸付を始めた。とくにアヘン戦争後開かれた通商口岸で、銭庄のこの貸付業務は急速に発達した。たとえば、1848年の広州においては、商業貿易の発展の結果、銀と銅銭の兌換に従事するものはごくわずかで、大部分の銭庄は商業との関係を関係を生み出した。商人が銭庄に預け入れるとき、一般に銭庄は利子を払わず,商人は随時支払いに引き出せた。12%以下の年利を予告するが、預金p.9 者が利息を受け取るには引き出しの数日前に銭庄に申し出る必要があるものもあった。一部の銭庄は期限3日以内、日利息5%の短期貸付を行った。通商口岸の福州には、1844年の対外開放後、大小の銭庄は100軒余り、これらの銭庄はみな預金を受け入れ、預かり証(票據)を署名振り出した(簽發)。福州の商人は銭庄の署名入り預かり証を現金(現銀)と同じとみて、市場では銭庄が署名した預かり証を、財貨の買い付けや債務の支払いに用いることができた。当時対外貿易で茶葉が中心であり、全国の茶葉貿易で福州は一貫して重要な位置にあった。茶葉の貿易活動で、福州の銭庄は武夷茶葉を本国貿易商が運んで販売するにあたり大量の貸付をおこなった。東南の重要な都市(重鎮)上海は、銭庄の数は多く、種類も複雑、一部の資本薄弱な銭庄が預金の受け入れ貸付を行わず、銀元鋪幣の小さな売買を専門でもっぱらおこなったほかは、多くの銭庄はみな異なる類型の金融活動に従事した。一部の規模が比較的大きく、資本が三乃至五万両の銭庄は、主要には沙船業に対し担保貸付を行い、同時にまた金、銀、メキシコ銀貨の投機売買をおこなった。資本が5000乃至一万両の銭庄は、あるものは綿織品の卸商への貸付けに専従し、あるものはアヘンの仲買人(掮客)への貸付を専門に行った。鎮江のような小さな都市において、1868年には銭庄は27軒を数え、その中のいくつかは大銭庄で、常に6ないし10万両の間の預金を吸収していた。
伝統的銭庄が近代金融機構に転化する今一つの重要な標識は庄票の流行である。
庄票はその名の通り、銭庄が振り出す預かり証である。これは銭庄が署名し、支払いに用いた一定金額の預かり証である。庄票は即時払い(即期)と後払い(遠期)の二種類があり、即時庄票は一覧後すぐに支払われ、後払い庄票は数日後期限が来たら支払われ、最長期限は一般に20日であった。庄票は一種の信用証書(憑據)であり、
p.10 一定範囲で現金の代わりとなり、支払いに用いられ流通した。銭庄は自ら署名した庄票に完全責任があり、満期には必ずそこに書かれている金額が支払われねばならず、もし支払われねば、それは信用の喪失、破産宣告に他ならなかった。
銭庄の庄票の広範な使用は、通商口岸開設後の対外貿易発展をもたらした。
アヘン戦争後広州、上海など五つの通商口岸が開かれ、外国商人が続々と通商口岸に貿易活動に従事しにやってきた。開始と同時に、外国商人は内地で貨物を買うために、常に大量の銀を持ち込む必要があった。1846年にある英国商人が上海から寧波にみゃげ物(土貨)を買付にくることになったが、大量の銀を携帯することを嫌って、上海の綿生銭庄で寧波の店で兌換する期票と交換した。この銭庄の庄票を貿易の決済に用いる方式は、外国商人の貿易をすこぶる便利にしたのであり、このあと採用するものが増加した。これと同時に、中国人商人で外国人商人から輸入商品を購入するのに庄票を応用する状況も多く生じた。もともとは先の外国人商人がそれぞれの各地から来た中国人商人に対し、なかなか品物を渡して後払いとは行かなかったが、19世紀の50年代から、一部の外国人商人は銭庄に対し5日から20日後払いの庄票を申請し、洋行(中国人で外国人相手の商売のもの)への支払いに庄票で支払った。庄票の期限がくると、庄票をもって銭庄で支払いを得た。もしこのとき中国人商人がなお銭庄に未払いの債務があれば、銭庄はまずその支払いを行った。このやり方は、外国人商人、中国人商人(華商)、銭庄の三方に等しく利があったので、それゆえ19世紀60年代までに、外国人商人の庄票の使用は十分に広がっていた。
p.11 銭庄の庄票はその銭庄のところのほか外国商人に喜んで受け取られたのにはなお、もう一つの理由がある。それは外国商人にとり迅速な蔵出し(出貨)に便宜を与えたからである。一部の輸入商人は西洋の品の輸入において支払いに庄票を多用した。この時彼が自身の洋行に対する債務を銭庄を銭庄に負担させて、(輸入)商人が庄票を使って期限を与えて資金を調達するなら、何人かの賢明な商人は単純に(乾脆)出貨の時間を縮めようと、貨物の売上収入で銭庄に対する債務の償却とした。このように、実際上銭庄は洋行に対して保証を提供し、洋行が貨物を売る際のリスクを最低限度まで減少させた。同時に庄票に使用は西洋の貨物の内地浸透(滲入)を加速した。
19世紀60年後半、外国銀行が上海などで開業するとともに、銭庄とこれら外国銀行の間には次第に融通資金関係がうまれた。これは銭庄の金融活動をさらに一歩発展させた。
中国で開業した初期の外国銀行は、その業務の中心は外国商人の資金受取(匯兌)業務にあったが、やがてその業務の中心は預金貸出(存放款) に移った。外国銀行は多方面から預金を吸収した後、常に大量の流動資金を保有するに至り、必要な商業上の支払いのほか、多くの差額(頭寸)を余すようになり、その活用法(出路)を探していた。この時期の銭庄の信用貸付の範囲と規模は、輸出入貿易と相まって拡大、自身に力量は比較薄弱で、外来資金借用が必要であった。19世紀の六七十年代、外国商人(買辦)の仲介を通じて、外国銀行は銭庄の庄票を担保として、銭庄に短期貸付を提供し始めた。すなわち銭庄行業でいいうところの”拆款”である。銭庄は外国銀行に行なう拆款を通じて、大金を借りることができたし,大きな商売をでき、それにより、外国銀行は寝ているお金から利息を生じさせた。双方互いに利益を得たと。拆款は二日ごとに精算されるもので、その利息は市場利息に比べて安く、互いに利益になるから(兩相得益)と言われている。これが銭庄が差額を利潤を刈り取ることを可能にした。記録によれば、19世紀80年代、外国銀行は毎年銭庄に対して、数百万両に及ぶものを貸し付け、
p.12 少なくない利息を獲得した。もっとも多い時で貸付総数は一千万両余りであり、個々の銭庄の貸付は七八十万両に達した。このとき銭庄の浮き沈みは、疑いなく既に外国銀行の手中にあった。
新中国建国以前中国金融史
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