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建国初期の物価高騰 1949/04-1950/03

 賀水金《1927-1952年 中国金融與財政問題研究》上海社會科學院出版社2009年pp.310-316

p.310 一、建国初期四度の物価高騰(漲風)

 新中国成立初期の物価波動の最も激烈であったのは1949年ー50年3月、前後4回の大きな物価高騰(漲風)が発生した。

 (一)最初の漲風
 1949年、華北でかなり重い春の干ばつがあり、春の収穫は少なかった。4月、華北、西北の広い範囲で物価波動が席巻、山東、蘇北,平津などに波及した。4-5月の両月、上述地区の物価はあまねく50%前後上昇した。政府は物資の低価格放出(抛售)、投機の取り締まり、市場管理の強化などの措置を通じて、漲風の継続蔓延とても早く阻止した。

 (二)二回目の漲風
 このときの物価風潮は上海解放後間もなく発生した。まず銀元の投機が始まり、それから糧食、綿製品(棉紗)など主要商品を襲った(進襲)。1949年5月28日即ち上海解放の翌日、上海市軍事管制委員会は直ちに「人民幣の使用並びに金圓券の使用期限と使用禁止について」の規定を公布、人民幣をp.311  統一流通する合法貨幣と宣言、金圓券との交換比率を1:10万、(使用)期限は6月5日までとした。上海の投機商人はまるで聞かなかったかのように(置若罔聞)「解放軍は上海に入ることはできたが、人民幣は入れなかった」と思わせぶりな発言をした(揚言)。彼らは多年悪性通貨膨張を利用して人々に紙幣にたいする不信任の心理をうみだし、ひたすら(大肆)銀元投機を進め、上海の物価の直線上昇を招いていた(帶動)。1949年5月27日から6月9日までの13日の間に、物価総指数は2.7倍以上、金は2.11倍、銀元は1.98倍、米は2.24倍、綿製品は1.49倍に上昇した。人民幣の通貨地位はおよそ、金、銀元に劣っていた(所排擠)。この状況に対して人民政府はまず大量の銀元を売り出す方法で銀価を抑えた。6月5日、政府は上海市場に対し銀元10万枚を集中放出、しかし泥で作った牛が水に溶けるように(泥牛入海)一声も上げることなく飲み込まれてしまった。銀元価格は上昇を続けた。6月10日、政府は金銀投機の大本営の封鎖を決定し、大量の投機分子を逮捕、区別して処罰を与え、投機勢力に重い打撃を加えた。同時に政府はあ「華東金融と外国為替管理辦法」を公布し、金、銀、外国為替の自由流通と私的(私相)売買、金銀、外国為替の計算価格を禁止した。人民銀行が金銀、外国為替の受け入れ支払い(收兌)を開始した。次の日、上海の銀元価格は2000元人民元から1200元に暴落し、米価もこれに合わせて10%下落した。6月14日から、銀行は貯蓄預金の割引(折實)。上述の措置に加え、金銀投機活動は基本取り締まられ、金銀のブラックマーケットは一転不振、人民幣の通貨地位は上海市場で最初の確立(初歩確立)、物価全体も短期間安定した。上海市での銀元投機活動への打撃の後、全国の大都市が次々にまねをした。武漢では銀元投機分子200人あまりが逮捕され、金融投機に従事していた大銭庄2社が検査の後閉鎖された。広州では、投機ビジネスに従事していた87社の地下銭庄と金融市場を乱していた街頭兌換店が取り締まりを受けた。各大都市におけるこの打撃行動は明らか効果を収めた。史上「銀元風潮」あるいは「銀元の戦い」と呼ばれている。
 しかし上海の物価はわずか二週安定しただけであり再び波乱が起きた。6月23日から7月21日この1ケ月ほどの間に綿製品(紗)の価格は32.5万元から61.5万元に89%上昇した。糧食は更に猛烈で6月23日から7月16日までに米価は石当たり(=100リットルあたり)1.17万元から5.9万元に404%上昇した。物価全体の上昇程度はとても大きく7月の物価指数の上昇(幅?)は204.61, 6月の上昇は104.6である。各種主要商品の7月平均価格は6月に比して50%から200%以上であった。平(北平)、津(天津)の物価もまた急速に上昇、物価風潮は野火のように全国にひろがった。
 この漲風に対して、党と政府は各種の市場物価を管理する新たな措置をとった。たとえば各種の取引規則を制定、いくつかの主要商品について場外取引を禁止、取引時間を統一、現金で当日支払う割合を規定,貨物受取証(棧單)売買を禁止、営業外業務の禁止、一度決めた価格(議價)の実行など、私商の投機活動を制限しようとした。同時に物資を緊急に集め、国営貿易単位の放出力(抛售力度)を高めた、米の売出量は次第に増加、市場での取引p.312   量の比率は5%から55%以上の高まった。その価格は市場価格より低く、併せて労働者や機関団体が物資の配給販売を行った。これらの措置により7月下旬、物価情勢の気配は緩み始めた。

 (三) 三回目の漲風
  これは新中国成立後、物価の騰勢が最も激しく、波及範囲も最も広く,局面も最緊張、継続時間も最も長かった全国的な物価高騰であった。10月1日、中華人民共和国開国大典が北京天安門広場で盛大に挙行された。10月15日から上海、天津が先導、華中、西北が続いた。まず輸入工業原料、五金(金銀銅鉄錫、つまり広く金属、金属製品を指す)、化工(化学工業製品を指す)などの価格が次第に(節節)上昇、紗布,糧食価格が大幅に跳ね上がり、全物価を猛烈に押し上げ、毎日の上昇率は10%から30%に達した。7月の物価を基準(基礎)にすると12月10日までに、上海、天津、漢口、西安の四大都市の物価は平均して3.2倍、11月24日には物価波動の最高点に達し7月の底の3.7倍に達した。
 当時中央財経工作を担当し、反通貨膨張の第一線にあった陳雲は、上海の投機者が主要に紗布を蓄積、華北の投機勢力は糧食を集中攻撃していることに注意した。両面に敵を受けることを回避するために、彼はまず北方の糧食価格安定問題に精力を集中した。11月15日から毎日1000万斤から1200万斤、を東北から京津地区に糧食を送った。同時に16社の糧食投機商を逮捕し厳罰を加えた。これらの手段は投機者を震え上がらせ民心を安定させた。
 北京天津の高騰に手を打ったあと、陳雲は全力で上海の物価高騰の抑制を始めた。当初、上海国営貿易単位は市場に大量に物資を放出(抛售),その期間が長くなるとともに、値上がり幅(波幅)は縮小した。当時毎日放出されたのは棉紗700件あまり、棉布·7000巻(匹)あまり、砂糖は約5000包、10月10日から11月10日までの1ケ月では棉紗は合わせて2万件、棉布は合わせて30万巻(匹)、加えて糧食、砂糖などの物資があった。回収した通貨は300億元余りに達した(この箇所を読んでいて人口比であまりにも放出量が少ないように思えた。どのような方法で放出されたかは明確でなく、共産党関係者などに有利に配分された疑いが残る。ー福光)。米の放出量はさらに大きく、11月7日一日で911万斤を放出、これは平時の市場取引量の10倍以上だった。このように多量の物資放出にもかかわらず、物価の継続上昇を抑制することはできなかった。11月16日国営公司は、石あたり7.5万元から8万元の平価でコメ750万斤で放出したが、私営商店の小売価格は14万元から16万元の高値に達していた(この記述もよくわからないところ。末端価格が元値の2倍ということは、理屈としてはありうる。つまりこの開きが合理的かどうかは、間でどれだけ儲けが必要かということ。流通の経費がどうなっていたか次第だ。しかし先ほど上海で7月16日に石5.9万元だっということ、7月から12月で物価が3倍に跳ね上がったということ、などの記述から、急激な物価上昇は確かに確認できる。-福光)。この時の上昇は全国的で、上海でだけの行動ではすでに解決できない問題であり、全国の統一した措置(部署)差し迫って必要だった。中央はすぐに全国大都市に主要物資を集め、11月25日から全国各大都市統一行動として、集中放出を行った。投機商人に適切な教訓を与えるために、中央は特別に指示した。「(1)買い入れが盛んであるときに、売りにくいもの、売れないものを投機商に売り出せ、ただし主要物資を出す必要はない。(2)貨幣流通の収縮と物価が落ち着くのを待って、
p.313   商人が主要物資を吐き出したら、買い進むように。」。大量の調達、物資の放出のほか、徴税(税収)の運用、貸付(信貸)など多様な手段の組み合わせで投機資本が完全に息もできないようした。中財委員会はすべての国営企業の資金をすべて国家銀行に預金させ、私営銀行と資本家に企業貸付を行ってならないとした。私営工場は閉鎖を許されず、労働者に賃金を払わねばならない。加えて増税をして、納税遅延はできなかった。同時に全国各地で地下銭庄を取り締まることで、投機分子の資金源から切り離した。
    11月25日、全国統一放出行動が開始された。当初、投機商は大量に買い進み、借り入れしてでも買った。しかし当日物価が安定しただけでなく下落を始めたのは、投機商の考えを大きく超えていた。政府が連続して放出10日後、投機商はもはや持ちこたえることができず、ただ捨て値で売るしかなかった。物価はこのあと30-40%下がった。このとき50日にわたった物価高騰は中央の統一指揮と統一行動の下、ついに全面的に収まった。これが有名な「米棉の戦い(米棉之戰)」である。
    (中略)
p.314  (四) 4回目の漲風
   1950年春節前後、投機分子は上海市場の春節「めでたい数字は膨らむ」という古い「規律」と国民党飛行機の上海爆撃を利用し、発電所がかなり破壊され、工場が停止、春節前の消費品の供給が厳しくなり、糧食と紗布で再び物価風波が起き、全国の物価も一緒に上昇した。全国の大中15都市の25種の商品卸売(批發)物価指数は、1949年12月を100とすると、1950年1月に126.6、2月には203.3, 3月には226.3に上昇した。しかし陳雲は紗布と糧食のp.315   全国大調達を精密に組織し、迅速に物価を安定させた。わずか半月ほどで一点も残さず整った形で(乾净利索地)この物価騰貴を解決した。この闘争は「めでたい数字の戦い(紅盤之戰)」と呼ばれている。
   この時、チベット以外、中国の大陸はすべて解放された。軍事費用項目という最大で最も統制しにくく財政に負担であったものが大きく緩み、工農業生産もまた迅速に回復した。1950年3月、陳雲は政務院で「国家財政経済工作を統一する決定について」を起草、全国の財政収支、物資調達と現金管理は統一された。財経統一管理の基礎上で、財経部門は終始を整理、赤字を縮小した。4月に全国財政収支はすでに均衡に近づいた。これは物価が全面的に安定に向かう基礎である。13年にわたった中国通貨膨張の局面は、根本がねじ曲がったことによるのであるが、このときの物価漲風が十余年の物価波動の最後の声になった。

新中国建国以後中国経済史


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福光 寛  中国経済思想摘記
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