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1-3. 土地改革は自由にさせるか偏りを防ぐかの二つの困難の間を進んだ

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)(写真は占春園)
p.10   新たな土地改革法と劉少奇の報告は、これまでの良い経験をすべて明確にしたものだった。土地改革が政府が頒布した法令及び方針に従うことが確定し、政策とその歩みは、指導、計画、秩序のもと進行した。政策方面ではまた新民主主義の戦略方針に従い、富農を保留し、私人工商業を保存し、中農を保護する。少数民族地区の情況にとくに注意し、各地の民主革命の決定で自主性を認める。特に西蔵については、1957年以前民主改革を行わないことを許し、内蒙古についてもまた特殊政策を実行する。会議(の決定)は伝達され、全党は一致して支持を表明した。
   同時に別の一面では、各地で運動中、とくに運動が高揚している中で、常に直面したある難題があった。それは群衆を自由に立ちあがらせることと、正しく政策を執行することと、この二つの方面をいかに協調させるかであった。いかにすれば一つの平衡点を探し当てることができるか。このためには、この方面の歴史経験、そして実践から多くの教訓を思い起こす必要がある。
   太行区の経験からみると、抗日初期にゲリラ(遊撃)戦争を行い、敵の後ろに抗日根拠地と人民政権を建設した。執行した総政策は、抗日民族統一戦線である。一般の群衆を団結させるだけでなく、地方の開明人士を団結させる。地主を消滅させない。土地を分配しない。ただ地代の引き下げと利息の引き下げだけが、負担政策上累進制の合理(的)負担を実行する。五種類の経済成分が併存している。公有制企業はただいくつかの軍工場と、規模が大きくない公営商業である。1940年までに、政権は三三制を実行した。3分の1は共産党員で3分の2は非党人士、知識分子、開明士紳からなる。同時に保障人権のスローガンが提出された。やたらとなぐってはいけない、みだりに逮捕しない、でたらめに殺さない、立法秩序を建設し、法律と政府を整える。法も天理もない、無政府状態であってはならない。
 1940-1941年の時、北方局書記の彭徳懐は「自由平等博愛のスローガン」をなお提出した(のちに延安整風(運動)時に批判(批評)を受けた)。
 当時この一組の政策は根拠地に立脚して、各階層の能力(力量)を団結させ、敵人日本侵略者に最大の力を出すには有効だった。しかし開始してしばらくすると(1937年から1941年前)、大衆(群衆)を立ちあがらせること(発動)が軽視され、根拠地の地方工作は上滑りし、大衆の優位(群衆優勢)が樹立されなくなった。
 のちに党の七大会議の開会を準備し、劉少奇が新四軍事件を処理してのちに、延安に戻る道で太行を経由し、沿路、抗日統一戦線を強調するには広範な大衆に依拠する必要があり、それは単に政府の行政措置に依拠するということではなかった。政策はまだ、地代の引き下げと利息の引き下げであり、土地改革は停止されているが、しかし大衆を立ち上げらせることは必ず必要で、大衆に依拠することは、根拠地を強固にすること、中間勢力を争って味方とすること、頑迷な勢力を孤立させ、統一戦線を強化し、我が党が日本帝国主義および国民党の頑迷勢力との闘争において、頼れる大衆の基礎を持つということであった。
   1942年に、太行区軍政委員会主席鄧小平主催のもと、高級幹部会議が開かれ大衆運動を発展させることが定められた(布置発展群衆運動)。李雪峰は当時、太行区の書記であり彼は運動開始にあたり「大衆を立ちあがらせること、十分に大衆を立ちあがらせること」を強調した。運動の中で受けた苦しみを訴え、記憶を新たにし、道理を訴える(訴苦、回憶、説理)の闘争方式が創造された。苦しみを訴えることを通して、地主の残酷な搾取圧迫を暴露し、そのあと法理を説いて、搾取債の清算を求める。これは農民の階級覚悟を喚起することで極めて容易になる(極有利)。
    白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.49   過去の苦しみを訴える中でで、地主による過酷な搾取と抑圧の実態を暴露し、そのうえで農民に法にのっとって道理を主張させ、搾取で生じた債務を清算させていく方法をとったが、こうした方法は農民の階級意識を喚起させるうえで極めて有効であった。
 
 1942年に始められ1945年までの間、各解放区では地代の引き下げ利息の引き下げのスローガンの下、大衆を立ちあがらせ、予定した効果が得られた。
 1946年に中央は土地問題に関する指示(すなわち「五四指示」)を下達した。このとき抗日戦争はすでに勝利を獲得しており、解放戦争に転化(転入)していた。党中央は土地改革を進めてよいと決定した。「五四指示」の主要精神は、「一条批准,九条照顧」とまとめることができる。一条批准(一条による同意)とは、大衆に地主の土地を無償で没収することを認める(允許)ということである。九条照顧(九条による配慮)とは、中農を厳格に保護すること、工商業者、富農、小土地を差し出したもの、民主人士に配慮すること、地主に土地を残し生活できるようにして締め出してはならないなどである。「五四指示」はソビエト区時代と抗戦後期の二つの段階相反する方面の経験を総括したものである。土地改革を通じて大衆階級の覚悟は高まり,わが軍わが党の力量は壮大になった。これをよく証明するのは大衆の参軍ブームが極度に高まったことで、劉鄧大軍は9縦隊にまで拡大し、全中国解放の主力軍の一つになったことである。
   1946年末までにおよそ3分の2の解放区で土地改革が完成した。このとき劉少奇と中央工作委員会は延安を離れ河北の阜平(フーピン)に到達し、1947年秋季に全国土地会議を招集、「中国土地法大綱」を起草し、封建そして半封建の土地の没収を要求し、均分を乱すこと(打亂平分)を要求した。会議は過去数年にわたる土地改革工作の総括を行い、当時の工作が不徹底で、貧しい雇農の要求を満たしていなかったと認めた。その原因は幹部の隊伍が成分不純だったからである。この故に両条の要求が出された。一つは貧雇農路線を歩むことであり、二つは隊伍に純潔を求め(晉綏 チンスイ区は搬石頭と呼ばれる)幹部を整えることである。このゆえに少し「左」のものが出現した、もともとは地主富農の田はすでに分けられており、地主と富農は掃除されて出てしまっていたが、なお不徹底だといえば、再度土地を分けることは幹部と中農の土地についてのみ可能であった。とくに大衆の過激な行動について、容認する態度がとられ、すべては大衆の判断によるとされた。搬石頭 斗幹部(幹部批判が進められ幹部が批判されて)数日のうちに一部の基層幹部をつぶす(打死)ことになった。
 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.50 「重石をどかす」ために幹部と戦うといって、わずか数日の間に現場の幹部を殴り殺してしまったことがあった。

 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.52  私は中南局に来てから、太行区と新解放区の土地改革を通じて大きな問題が存在していることを感じるようになった。それは、思い切って、無制限に大衆を立ち上がらせることと真剣に政策を徹底させ、法律を遵守するという両立の難しい問題である。上述のいくつかの段階においても、いつも「左傾」に反対すれば右よりになり、右寄りに反対すれば「左傾」になってしまい、いつもこの法則で行きつ戻りつを繰り返していた。このことは1924年の「第一次国内革命戦争」から解放後えずっと続いた。

 白石さんたちの訳 農村漁村文化協会p.54-55 上述したほかに、中南局全体についていうと、富農への対応の問題が存在していた。鄧子恢は地主の持っている土地だけでは貧農・雇農の要求を満たせないので、ソビエト区の時期にも「中間を動かさず、両端を動かす」ことを主張したことがあったが、この時期にも富農の余った土地だけを没収することを提案していた。主席がこの意見に同意しなかったのは、本来正しいことであったが、中央委員会全体会議は各地域の実情に照らして問題を処理すればよいと同意してしまった。この結果、中南局、西南局では富農がすべて消滅することになってしまった。
 
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