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輪船招商局・交易所法・上海衆業公所

朱蔭貴《近代中國   金融與証券研究》上海人民出版社2012年,342-343(写真は東京タワー 2019年12月27日)

近代において中国証券市場が存在した時期において、もしその誕生や変遷と外部の環境をみるならば、はるかに正常ではない。この正常ではないという特徴は、現在以下の4つの面に集中して現われている。

 その一。中国にある外国株券(股票)の売買は中国で早くから行われている。1843年から上海の開埠(貿易港として開くこと)が始まると、外国資本と外国企業が上海で相次いで設立された。このように相次いで設立されたなかには、外国の輪船公司、保険公司は多くは株券公司の形式を採用した。そのため外国企業株券を売買する現象が上海で出現し始めた。当時の上海の英字新聞『北華捷報』『字林西報』上には、すでに在中国の外国企業株券の価格等の報告が現れている。例えば、1866年の『字林西報』は英商利華銀行の額面10英ポンドの株券の市価がかつて25英ポンドに達したことを報じた(『字林西報』1866年7月6日『近代上海金融市場』1989年版p.136)。1869年には外国の廠商企業の株券を売買したり、客の代わりに間に入り転売することを専業で行う商号長利公司が現れた(『銀行周報』1919年9月16日)。上海早期の華文新聞『上海新報』は1871年2月23日から「長利洋行」の名前で、外国商人の在中国公司株券の価格などの開示(發佈)を始めた。たとえば1871年2月23日の『上海新報』一面の最初の記事(頭版頭條)は”上海株式情勢紙”であり、この”情勢紙”の下段は、滙豐銀行の旧株と新株、米商旗昌輪船公司の新株と旧株、イギリスの水道ガス公司(自來火公司)、フランスの水道ガス公司など20種の西欧商人公司の株券市場情報が並べて記載されている。この後、毎週火曜、木曜、土曜にこの新聞は株式情報を継続して掲載している(『上海新報』1871年2月23日。『近代中国史料從刊』3編59輯)。(以上はいずれも国外で設立発行されたものなので)中国で最も早く発行され売買された(株式)は1872年に設立された輪船招商局の株券であり、外国の在中国株券の売買に遅れたのである。

   その二。中国自身の中国商人の株券売買が在中国の外国商人の株券売買に遅れただけでなく、中国の証券交易所法の公布と、証券取引所の設立は、多くの人に強く求められながら(千呼萬喚)遅々として進まなかった(遲遲難產)。中国の最初の証券交易所法は、北洋政府の時期の1914年に公布された。このとき1872年の中国輪船招商局が発行した株券の売買からすでに42年が経過していた。このあとさらに4年を経て1918年に北京証券交易所が設立されたが(なお上海以外ではこの北京証券交易所の存続期間が1918年から33年停業まで15年と最も長く、南京、青島、天津、漢口などの取引所は存続がさらに短く、またあるものは開業に至らなかった。)、これは近代中国本国の最初の証券交易所であるが、このとき中国商人の株券が出現し売買が行われたときからすでに46年、半世紀近くが経過していた。

 その三。民間の証券市場設立の積極性は政府をはるかに上回っていた。1872年輪船招商局が成立してからの数年、輪船招商局による”糾股集資"股を集めて資本を集め企業を設立する、株券売買で見本を示した効果(示範效應)により,1880年前後前後して40近くの中国企業が市場で株券を発行して資金をあつめることで成立し、洋務運動は盛り上がり(掀起了)新式株式制企業の株券売買ちょっとしたブームを迎えた。この期間に客に代わってそれぞれの公司株券を売買することを専門とする民間の専門公司上海平准股票公司が現れた(別の資料によればこの公司は短命であった。福光)。この後は20世紀になってから1914年に、新たに成立した北京国民政府はようやく規範となる証券交易を規範する「交易所法」を公布し、1918年になってようやく、北京証券交易所、上海証券物品交易所、そして上海証券交易所が前後して批准成立した状況を比較するに、民間と政府の証券市場に対する態度、熱情の鮮明な差異、これは十分明らかではないか。

 その四。近代中国証券市場において、中国自身の証券交易所のほか、外国の在中国証券交易所が長期にわたって存在したのは一か所だけではない。すなわち日本商人系の上海取引所(日商上海取引所)と上海西商衆業公所(Shanghai Stock Exchange)である。日商上海取引所は中国金融で指導的地位を取ろうとの野心で設立された証券交易所であった。1918年に上海に設立され、中国の朝野の抵抗と自身の問題の二重の制約の下、1927年に業務を停止、9年間存在した。

 上海西商衆業公所は、帝国主義列強が近代において上海で起こした証券交易所であり、外国商人とくに英米の商人が創業し支配した。外国と外国商人の在中国に設けた公司の株券と様々な債券を売買した。上海西商衆業公所の来歴について1935年の『上海市年鑑』は次のように記載している。「上海の交易所組織は西商(西欧商人)が始めた。清光緒十七年(1891)西商証券が上海股份公所(Shanghai Sharebrokers' Association)を設立したが、実際は西商証券掮客公會が交易所のひな型であった。光緒三十年(1904)に西商は再び上海証券交易所を組織することを動議、翌年正式に開業し名前を「上海衆業公所」(Shanghai Stock Exchange),すなわち証券交易所とした、宣統二年(1910)、香港政府股份有限公司条例により登記した。民国十八年(1929)に”上海股份公所”は”上海衆業公所”に編入し、前者の名前はこれにより取り消された。上述資料によれば、西商衆業公所の歴史は1891年の”上海股份公所”から数えて、1941年12月に太平洋戦争が勃発し日本軍が上海租界に進入し、西商衆業公所が業務を停止するまでちょうど50年存在した。1905年の”上海衆業公所”から数えると36年であり、中国自身が起こした証券交易所の存在時間をはるかにこえている。次のように言える。近代西商衆業公所は客であるがその声は主人より大きく(喧賓奪主),近代証券市場で最も早く出現し、その歴史は最も長く、その範囲も最も広範であったというこの点、これはすでに否認しがたい歴史的事実である。国際慣例によれば、主権独立国家であればその他の国家が自己の領土に証券交易所を設立することを許すことはあり得ない。

 上述したように近代中国証券市場の外部環境は歪曲され正常でなかった。とくに外国商人の証券交易所が近代中国社会に長期存在した事実は、近代中国証券市場の外部環境の特殊性と植民地性を集中して体現している。

新中国建国以前中国金融史

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