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西商(シーシャン)或是華商(ホアシャン) 中国経済用語

 馬鳴家主編《中國的證券市場》中國財政經濟出版社1993年
   劉志英《近代上海華商證券同業公會評析》載《近代上海金融組織研究》復旦大學出版社2007年
   馬長林《中國古代金融》中國國際廣播出版社2011年
   朱蔭貴《近代中國:金融與證券研究》上海人民出版社2012年 

 すでに見たように、西欧商人(西商シーシャン)が主導して1891年に上海股份公所が設立され(1905年上海衆業公所と改称)、これは1941年に日本軍が上海に進駐するまで存続した。注意されるのは取扱い(上場)内容で、中国政府の金幣公債も扱っているが、基本は各地の外商の株券と、南洋のゴム会社の株券である。いずれもイギリス国籍のものがほとんどである(写真は心光寺石仏。注目される真ん中の像は破損が激しいが、上部が青面金剛で下段に三猿とおもわれる。今日からみると不思議だがこのタイプの像は庚申信仰として、盛んに設けられた。なおこの像の設置時期が今のところはっきりしない。右下の像は母子像である。また文化四年1807年のもの。これは慈母観音像と呼ばれるものであろう。)。
 したがって中国の経済学者が上海衆業公所とは別に中国商人(華商フオシャン)株券取引(股票交易)の歴史をたどるのは、当然だろう(取扱い内容そして売買の主たる担い手が中国のものであるかどうか)。まず1882年9月に成立した上海平准股票公司は華商股票交易の先駆とみられるが、このときの華商株券取引ブームは短命だったとみられている。
  また清朝末には茶楼での茶会を利用した取引の時代があった。
 その後1914年、上海衆業公所の形式を真似て上海股票商業公会が成立。会所には売買所が付設された。
 同じ1914年に北京政府は証券交易所法を公布。取引所は法的な根拠が与えられることになった。これを受けて上海の經紀人(ブローカー)に交易所を開設する動きがあり1920年7月には上海証券物品交易所が成立した。また上海股票商業公会のものも発展するかたちで1921年1月上海華商証券交易所が成立している。両者は1933年6月に合併し上海華商証券交易所となった(背景には1929年10月に国民政府が公布した交易所法が、取引所の種類ごとに1地区1所と規定したため、合併が促された事情がある)。同交易所は日本軍が上海を占領したあと一度業務を停止。その後、占領下で復業(1943年9月―45年8月)。さらに終戦後二度復業している(1946年9月―48年8月。49年2-5月)。
 このほか1918年6月に北京に開設された北京証券交易所は、中国最初の近代的証券交易所との評価もあるが、1928年に国民党政権が南京に遷都したことで勢いを失い、1939年に業務を停止している。
 以上のほかにも短命に終わった交易所が複数あり、中国の証券取引所(交易所)のどれにどのような名誉を与えるかは実はかなり面倒であるが、現在の上海証券交易所につながるのは1921年開設の上海華商証券交易所の系譜とみることに異論はないだろう。

新中国建国以前中国金融史

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