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胡耀邦 (1915-1989)

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「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
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#毛沢東

胡耀邦 出生から毛沢東を遠望するまで 1915-1927

 胡耀邦の経歴でまず記憶されるのは、まだほとんど子供のときに中共の軍に従軍したことと、ところが従軍して間もなくAB団と疑われてあやうく粛清されそうになったことである。であるがここでは胡耀邦が毛沢東を文家市で初めて遠くに見た1927年までを書く。毛沢東が1927年、長沙に軍を進めないで文家市から南下したのは有名な話だ。軍事力の大きな差があることから賢明な判断ともいえるし、このときの幹部の指示とは違った判断をしたことは規律に反しているようにも見える。いずれにせよ、その決定的な現

胡耀邦 中共中央の延安への移動と抗日大学一期生としての学習 1937

胡耀邦伝 人民出版社2005年 63-86  陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 66-79  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 84-98 (写真は成城大学3号館 2019年9月6日撮影) 1935年12月。中央政治局は東征山西戦役を起こす方針を決定する。1936年2月毛沢東が総指揮、彭徳懐が副指揮を東征軍(中国人民紅軍抗日先鋒軍)の先頭部隊は、雪が降る夜、黄河渡河を実行しようとした。このときは流れの速さにあきらめるが、2月20

胡耀邦  中央軍事委員会総政治部組織部部長に就任 1939/第二次大戦後 病に倒れる 1946/03

 胡耀邦伝 人民出版社2005年 86-101  蕭一平 延安整風運動-回憶與研究 中央文獻出版社2012   陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 79-95  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 99-112    1939年3月。胡耀邦は毛沢東の指名により中央軍事委員会総政治部組織部副部長に就任。総政治部主任は王稼祥、組織部長は方強。王稼祥は遵義会議で毛沢東を支持して、毛沢東の指導権確立に貢献。腹部に重傷を負ったまま長征にしたがい、その後、ソ連で

胡耀邦 軍政治委員として転戦(1946/7~1949/12)。四川省川北で臨時工作委員会書記に就任。

胡耀邦伝 第1巻 人民出版社2005年 98-172  陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 95-156  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 110-162 胡耀邦は延安をはなれたあと(1945年11月)、一時、肝炎を発病して、入院治療をよぎなくされた。そのあと1946年7月に職場に復帰している。ポストは、軍隊の中で政治委員というポストである。その後、行政職への移動は後述するように1949年12月。その間の3年余り各地の戦場で軍人と

胡耀邦 青年団中央委書記 1952-62

 胡耀邦伝 第1巻 北京聯合出版公司2015年 227-320 (今回からこの本については2015年に3巻本として出版された北京聯合出版公司版を使う)  陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 190-282  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 212-262  (写真は心光寺の石仏。万治二年1659年の銘が読み取れる) 青年団中央書記所第一書記に就任 1952年8月  胡耀邦の処遇については、政務院建築工程部常務副部長というポストが想定されていたが

胡耀邦  科学政策の作成と挫折 1975-77

《“文化大革命”簡史 3版》 中共黨史出版社 ,2006年 中國科學院《胡耀邦在中國科學院》科學出版社,2012年 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版公司,2015年 中共中央黨史研究室著《中國共產黨的九十年》中共黨史出版社,2016年   1975年7月17日。鄧小平から華国鋒さらに胡耀邦へ、郭沫若を組長とする一団を率いて、科学院の再建(整頓)し、速やかに科学技術工作を進め、国民経済の後退を食い止めることが指示された。さらに現状を把握して国務院に報告すること

胡耀邦 毛主席は党の集団指導体制から離れ誤りを犯した 1981/07/01

(胡耀邦 在慶祝中国共産党成立六十周年大会上的講話 1981年7月1日) 「胡耀邦文選」人民出版社2015より pp.266-287 p.270 変動する歴史の先頭に立つ多くの大人物がみなそれなりの欠点や誤りを持っているのと同様に、毛沢東同志もまた彼の欠点と誤りを持っている。主要には彼の晩年に、長期にわたり全党と全国各族人民の敬愛擁護と、過度に自らに自信を抱いた結果、ますます現実から離れ、大衆(群衆)から離れ、とくに党の集団指導体制から離れてしまい、しばしば他の人の正しい意

天は大きな任務を与える人にまず苦しみを与える(孟子)陸鏗《胡耀邦訪問記》1985/06

 「胡耀邦訪問記」は1985年6月1日(雑誌)『百姓』に掲載発表され、(この)文章は当時海内外、国際外交を震撼させた。政治界では中共領袖が示した前例のないオープンな姿に極めて高い関心が集まった。しかし(この記事)での言動は胡耀邦の失脚を招く一因になったことも知られている。採録時間は1985年5月10日午後3時半から5時半。場所は北京中南海で、画期的なインタビューを実現したのは、『百姓』半月刊社長、ニューヨーク『華語快報』発行人の陸鏗である。訪問記は長大である。全文は以下を参照

胡耀邦 党内の二種類の異なる矛盾を正確に処理する問題 毛沢東晩年の誤り  1986/04/09

『胡耀邦文選』人民出版社、2015年, 641-645(这是胡耀邦同志在端正党风 工作座谈会上讲话的一部分。1986年4月9日) p.641 党内の二種類の異なる矛盾を正確に処理することは、私の見るところ、わが党建設の一大課題である。 我々が忘れるべきではないのは、毛沢東同志によって、マルクス主義理論が発展しての高い峰となったときに、我々が世界の一切の事物の根本原理(方法)を明らかに認識するために、光り輝く理論著作『矛盾論』が書かれた。彼は言った、世界のあらゆるも

李鋭 改革開放を回顧する 2008

《對改革開放的一種回顧》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年82-85 2008年8月8日上午,在李銳家,王建勛記錄,整理。 p.82 今年は改革開放三十周年である。(30年前の 訳者補語)当時を回顧すると、自然と鄧小平、陳雲、胡耀邦、胡耀邦に趙紫陽の4人の行為を注目することになる(自然離不開四個人的作爲)、というのも改革開放の成否は、彼らの緊密な連携にかかっていたからである。そのなかのキーパーソンは鄧大人である。  鄧小平は林彪と同様に、歴史的に