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胡耀邦 (1915-1989)

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「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
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#胡耀邦

胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛  胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。  1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であった

胡耀邦ー辞職から逝去までー1987~89

                            福光 寛   胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は総書記を辞職してから(1987年1月16日)亡くなるまで(1989年4月15日)わずか2年あまり。逝去はあまりにも突然だった。  ただ彼は繰り返しての病歴や入院歴があり、身体は決して丈夫ではなかったことも事実である(胡耀邦の一生については「胡耀邦」参照)。  その死を悼む群衆が天安門に集まったことが六四事件につながった。そしてその遺灰は1年半余りの時を経て江西省

胡耀邦 議論を主導し総書記へ 1977-80

 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版·2015年で描かれている1977年の胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-89)の姿は、政治の中心で議論に参加・主導した、生き生きとした姿である。自信にあふれた姿がそこにはある。 中央工作会議 1977年11月10日から12月15日 胡耀邦は1977年8月の中国共産党大11次代表大会で再び中央委員に選出された。十一大の政治報告は四人組の粉砕と、文化大革命の終わり(結束)を宣言(宣告)した。中央は十一届三中全会の招集を決定。そ

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

胡耀邦 1932年末AB団関与を疑われる/その後、少年共産党中央局幹部に就任

 胡耀邦の人生の中で最大の試練は1932年末、AB団への関与を疑われたことで、突然訪れる。彼はこの時まだ17歳だった。中国共産党では、反党の疑いがあるだけで殺してしまうという無茶苦茶なことが繰り返されたが、AB団(反ボリシェビキ)はそうした事案の一つだ。肅反(スーファン)と呼ばれる、反党分子の摘発運動である。ここではこの、胡耀邦人生最大の危機について、以下の資料により述べる(写真は根津神社庚申塔 2020年7月26日)。  胡耀邦傳 人民出版社/中共黨史出版社 2005年

胡耀邦 中央党校の再建  1977-78

 陳利明 從紅小鬼到總書記 胡耀邦 人民日報出版社 2015年 胡耀邦 北京聯合出版公司 2015年(写真は教育の森公園 2020年6月17日撮影)    胡耀邦は1977年3月3日。中共中央政治局は胡耀邦を中央党校副校長に任命した。この時点で中央党校の校長は中央主席の華国鋒が兼務、副校長は組織部長の汪東興が兼務。つまり副校長であるが、胡耀邦が党校を運営するということであった。また後述するように党校は文革の間、康生が直接抑えていた拠点であった。  他方、この時はなお、康

1986年12月の学生運動について

 1986年末の学生運動についての正確な実態は公表されていない。しかし『中国共産党的九十年』中共党史出版2016年6月p.738は、つぎのようにその 影響として総書記の交代を伝える。「党の十二届六中全会決議(訳注 2016年9月28日)が強調した精神文明建設中のマルクス主義の指導地位を強め、資産階級自由化に反対するとの内容は、すぐに真剣な力で貫徹されなかった。1986年末、多くの(不少的)都市で学生運動(学潮)が発生し拡がった。1987年1月16日、中央政治局は拡大会議を開き

鄧小平 資産階級自由化に旗幟鮮明に反対せよ(1986年12月30日)

『鄧小平文選第三巻』人民出版社1993年12月pp.194-197より全訳。  学生が騒いだこと(闹事 原注73:1986年12月中下旬、資産階級自由化の思潮が氾濫する背景のもと、合肥、北京などの一部の高等院校の少数の学生は各種の情緒理由から街でデモをした。ごく少数の観念に取りつかれた人々が共産党の指導に反対し、社会主義道路に反対する扇動を行い、ある地方では交通秩序が乱されたり、社会治安の規定に違反する情況が生じた。その後、関係方面と学校当局の教育と指導により、事件は次第に

胡耀邦「中国にとり未来の銀のスプーンは何か」1986年6月11日

认识中国未来动向的银匙(1986年6月11日)载《胡耀邦文选》人民出版社2015年11月pp.646-651 英国の王室国際問題研究所での講演記録。 p.646 今日は皆さまのこの国際的な名誉と権威を享有されている国際問題研究機構を訪れることができ、傑出した国際問題の専門家そして学者の皆様と会見できますことを大変光栄に又嬉しく存じます。  (中略)私は皆さまに、本世紀から次の世紀までの中国の基本国策を二つの言葉にまとめることが出来ると、お伝えしたく思います。一つは改革開放

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

胡耀邦 出生から毛沢東を遠望するまで 1915-1927

 胡耀邦の経歴でまず記憶されるのは、まだほとんど子供のときに中共の軍に従軍したことと、ところが従軍して間もなくAB団と疑われてあやうく粛清されそうになったことである。であるがここでは胡耀邦が毛沢東を文家市で初めて遠くに見た1927年までを書く。毛沢東が1927年、長沙に軍を進めないで文家市から南下したのは有名な話だ。軍事力の大きな差があることから賢明な判断ともいえるし、このときの幹部の指示とは違った判断をしたことは規律に反しているようにも見える。いずれにせよ、その決定的な現

胡耀邦 小学校卒業から児童局書記就任まで 1929-1931

  胡耀邦が1930年11月、若年にして共産党の活動に合流してから(胡耀邦の居た地域がかなり特殊で共産党が実質的に支配していた地域であり、従軍というよりは見方によれば行政的な仕事をしていたともいえよう)、AB団関与の疑いを受ける1932年末までについて述べる(写真は根津神社庚申塔 像の右側に寛文八年1668年の文字が読み取れる。2020年7月26日)。 胡耀邦傳 人民出版社/中共黨史出版社,2005年, 15-27 陳利明《胡耀邦從紅小鬼到縂書記 修訂版》人

胡耀邦 病と負傷に耐え長征 1934-35

1934年10月、胡耀邦は中央紅軍とともに瑞金から撤退する。それから1年後1935年に延安に入るまでを追う。   胡耀邦伝 人民出版社2005年 40-62   陳利明 胡耀邦(修訂版)上巻 人民日報出版社2015年 50-65  胡耀邦は中央縦隊の中の中央工作団の一員であった。中央縦隊には高齢の幹部、三十数名の女性を抱え、弾薬などの製造器具、印刷機、文書などを抱えての移動で毎日十数キロの移動が限界だった。ほかの年少幹部とともに背中に一枚の毛布衣服を背負い、5キロの米

胡耀邦 中共中央の延安への移動と抗日大学一期生としての学習 1937

胡耀邦伝 人民出版社2005年 63-86  陳利明 胡耀邦上巻 修訂版 人民日報出版社2015 66-79  満妹 回憶父親胡耀邦上巻 天地図書2016 84-98 (写真は成城大学3号館 2019年9月6日撮影) 1935年12月。中央政治局は東征山西戦役を起こす方針を決定する。1936年2月毛沢東が総指揮、彭徳懐が副指揮を東征軍(中国人民紅軍抗日先鋒軍)の先頭部隊は、雪が降る夜、黄河渡河を実行しようとした。このときは流れの速さにあきらめるが、2月20