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胡耀邦 (1915-1989)

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「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
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#文化大革命

胡耀邦 議論を主導し総書記へ 1977-80

 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版·2015年で描かれている1977年の胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-89)の姿は、政治の中心で議論に参加・主導した、生き生きとした姿である。自信にあふれた姿がそこにはある。 中央工作会議 1977年11月10日から12月15日 胡耀邦は1977年8月の中国共産党大11次代表大会で再び中央委員に選出された。十一大の政治報告は四人組の粉砕と、文化大革命の終わり(結束)を宣言(宣告)した。中央は十一届三中全会の招集を決定。そ

Hu Yaobang 胡耀邦 1915-1989

胡耀邦 Britannica Kids  中国の指導者鄧小平の援護者protegeである胡耀邦は1980年代に中国共産党の総書記を務めた。中国でかなり自由主義的な(more liberal)指導者のひとりである彼は、政治的経済的改革を刺激し、また学生指導者に寛容さ(leniency)を見せたことで、1987年に不名誉な形で(in disgrace)辞職させられた。1989年の彼の死は、幾つかの都市、とくに有名なのは北京の天安門広場において、改革を求める集団示威活動の引き金を

胡耀邦 自己批判に応ぜず 1965-75

 胡耀邦伝 北京聯合出版公司2015年 389-425  陳利明 胡耀邦 修訂版 人民日報出版社2015 352-392  満妹 回憶父親胡耀邦 天地図書2016 300-364   (写真は心光寺の石仏。碑文に元禄九年1696年と読める)  1965年6月に胡耀邦は養生のため北京にもどり、10月6日に鄧小平から、処分の必要なし、との通告をうけた。1965年11月。胡耀邦が私的に付き合いのある将軍罗瑞卿(ルオ・ルイチン)が毛沢東思想に反対し政治を突出させることに反対した

胡耀邦 冤罪を正す 1977-80

 黄峥《刘少奇冤案始末》九州出版社 2012年  陳利明《從紅小鬼到總書記 胡耀邦》人民日報出版社 2015年 《胡耀邦》北京聯合出版公司 2015年 罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社 2015年   胡耀邦は1977年12月10日、中央組織部長を拝命する。中央党校副校長のポストはそのまま兼務である(写真は成城大学1号館中庭)。さらに1年後には、中央党校副校長、組織部長のままさらに中央秘書長、中央宣伝部長を兼任している。この中央組織部長として、行った

陳雲 誤りを糺す 1978/11/12

這是陳雲同志在中央工作會議東北組的發言。《陳雲文選 第三卷 第二版》1995年pp.232-235(写真は占春園のそばにて。右手が占春園。左手には放送大学校舎がある。) p.232 中央政治局常任委員会、中央政治局は一致して次のことを主張している、来年から工作の重点を社会主義建設開始に移すと。四つの現代化の実現は全党と全国人民の切迫した願望である。私は中央の意見に完全に同意する。安定団結はまた全党と全国人民の関心事である。幹部と大衆(群衆)が党内に対して、安定団結できる

胡耀邦 毛主席は党の集団指導体制から離れ誤りを犯した 1981/07/01

(胡耀邦 在慶祝中国共産党成立六十周年大会上的講話 1981年7月1日) 「胡耀邦文選」人民出版社2015より pp.266-287 p.270 変動する歴史の先頭に立つ多くの大人物がみなそれなりの欠点や誤りを持っているのと同様に、毛沢東同志もまた彼の欠点と誤りを持っている。主要には彼の晩年に、長期にわたり全党と全国各族人民の敬愛擁護と、過度に自らに自信を抱いた結果、ますます現実から離れ、大衆(群衆)から離れ、とくに党の集団指導体制から離れてしまい、しばしば他の人の正しい意