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胡耀邦 (1915-1989)

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「胡耀邦文選」人民出版社, 2015 ほか
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2019年11月の記事一覧

胡耀邦ー辞職から逝去までー1987~89

                            福光 寛   胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は総書記を辞職してから(1987年1月16日)亡くなるまで(1989年4月15日)わずか2年あまり。逝去はあまりにも突然だった。  ただ彼は繰り返しての病歴や入院歴があり、身体は決して丈夫ではなかったことも事実である(胡耀邦の一生については「胡耀邦」参照)。  その死を悼む群衆が天安門に集まったことが六四事件につながった。そしてその遺灰は1年半余りの時を経て江西省

胡耀邦 議論を主導し総書記へ 1977-80

 《胡耀邦(1915-1989)》北京聯合出版·2015年で描かれている1977年の胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-89)の姿は、政治の中心で議論に参加・主導した、生き生きとした姿である。自信にあふれた姿がそこにはある。 中央工作会議 1977年11月10日から12月15日 胡耀邦は1977年8月の中国共産党大11次代表大会で再び中央委員に選出された。十一大の政治報告は四人組の粉砕と、文化大革命の終わり(結束)を宣言(宣告)した。中央は十一届三中全会の招集を決定。そ

胡耀邦 改革への反発から辞職 1983-87

滿妹《回憶父親胡耀邦》天地圖書2016年,731-769  胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)は1983年1月の全国思想工作会議において、全面改革を訴えた。つまり経済改革だけでなく、政治改革に踏み込もうとした。  しかし実際にすすめようとすると反発が生まれた。1983年2月、広東深圳を視察した時、幹部の選抜管理方法として、選挙方式に支持を表明した。沿海部の都市、汕頭、厦門などでは実施されていた。1984年陝西省で委員会の書記を選挙で選ぶ方式が決定(通過)すると、鄧

滿妹「胡耀邦下の経済論争 1979-83」2016

 胡耀邦(フー・ヤオバン 1915-1989)が1987年に総書記を引退する経緯について7項目にわけて、胡耀邦の娘の滿妹がまとめている。そのうち経済に関係する最初の2項目の概略を述べる。なかなか興味深い。滿妹《回憶父親胡耀邦》天地図書有限公司2016年 pp.720-731 1.生産目的をめぐる論争  もともとは宣伝部長として中央指導部の講話を用意する際に生じた問題で(1979年5月から10月)、胡耀邦は社会主義生産の目的が明確でなく、管理体制で高度であることが生産力の発