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杜潤生(1913-2015)、于光遠(1915-2013)

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党内民主派と言える二人。中国の土地改革の指導者であった杜潤生(1913-2015)。清華大学で物理学に進学後、革命活動に転じた于光遠(1915-2013)。中共中宣部。国務院政治… もっと読む
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#四大自由

杜潤生 (1913-2015)

wikipedea(2019年6月6日閲覧) 杜潤生(ドウ・ルンシェン 1913年7月18日ー2015年10月9日)元の名前は杜德,山西省太谷県陽邑村人、中国の経済学者。長い時間深く探求した(資深)農村問題専門家。「中国農村改革の父」の称号を得る栄誉に浴している。(写真は肥後細川庭園にて) 生平  早年生涯  杜潤生は没落した富農家庭に生まれた。杜潤生の祖父、そして父は商人であり(經商)、のちに農民に転じた。5歳のとき母を弔い、13歳のとき父を弔った。そのため杜潤生は自身の

2.1 中央農村工作部への初登庁

(杜潤生「杜潤生自述」人民出版社2005より)(写真は占春園) p.24 1952年11月、中央はしばらくの間、検討(籌劃)したあと、中共中央農村工作部の設立(成立)を決定した。鄧子恢を部長、陳伯達、廖魯言を副部長、私を秘書長とする。私は国務院第四辦公室(すなわち農業辦公室)副主任)の兼務であった(その主任もまた鄧子恢が兼任であった)。  農村工作部の中心任務は中央組織の支援と広大な農民の互助合作運動の指導であった。このほか農村工作の各項具体業務は政府の農業、林業、水利等

過渡期総路線 (2.2)

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。 革命転換(転変)の政策決定 p.33 1953年における中国の大変化は2つの革命の(間の?)転換であった。すなわち新民主主義革命が社会主義革命に向かう転変であった。当時、鄧小平は言った。今年(1953年)3月以来、毛主席が中心になり一つのことをした。すなわち過渡期の総路線を提起(提出)した。これは確実に中国の歴史の発展進路にかかわる最重大事件であった。 その過程は。中共七届二中全会の後の数年間、毛

2.4 無駄話をして道理を説かない

(『杜潤生自述』人民出版社2005から)写真は毛沢東 1954年1月。 再び批判を受ける p.43 年間の大半の仕事が終わった、1953年10月から11月、中央農工部は第三次農業互助合作会議を招集した(その後慣例になり、毎年上半期に農村工作会議を開き、下半期には農業互助合作会議を開いた)。鄧子恢は南方視察のため参加しなかった。  毛主席は会議前と会議期間中の報告を受けるとき、2回中央農工部を批判した。彼は言った。「むやみな突進(冒進)を急いで正そうとして、いつも同じ風を吹き