マガジンのカバー画像

杜潤生(1913-2015)、于光遠(1915-2013)

34
党内民主派と言える二人。中国の土地改革の指導者であった杜潤生(1913-2015)。清華大学で物理学に進学後、革命活動に転じた于光遠(1915-2013)。中共中宣部。国務院政治… もっと読む
運営しているクリエイター

2019年2月の記事一覧

于光遠「新民主主義社会論」的歴史命運 1988~1998/2005

 手元にあるのは2005年に長江文芸出版社から出された韓鋼の注記がはいったもの。韓鋼の序文によれば、この元は1988年から1998年の間に于光遠が書いていたメモである。ここではその結論部から訳出するが、于光遠という人の柔軟な思考の成果がうかがえる。  前半p.235~の引用は、現状をそのまま「中国の特色ある社会主義」だとしている。そこには無理をして背伸びをしたところがない。後半p.238~は、理想的には新民主主義社会を続けて資本主義的発展を続け、次第に社会主義的発展が中心にな

2.6 小脚女人走路

p.53  1955年初め、中央は一連の幾つかの緊急指示を発出した。ー糧食の統購の数量を減らし、合作化の歩幅(步伐)を小さくした。しかし時を置かず、毛主席の態度に重大な変化(改変)が生まれた。また合わせて「農村の社会主義の風暴」が間もなく来ると予示された(7月31日の講話では「風暴」だった。10月の会議では「風暴」は「高潮」にあらためられた)。  1955年4月末、毛主席は外地から北京に戻り五一節活動に参加した。5月1日、天安門上で、譚震林に対し、合作化はなお少し早くできると

2.5 停、縮、発の三字方針

農村漁村文化協会訳p.84 (食糧の買上げと合作社運動とが並行して進む中、農民たちの抵抗が家畜売却屠殺などとして表面化した。食糧を買上げる形で召し上げられた上に家畜を合作社に取られるぐらいなら、処分するといういうことだったのだろう。) (1955年1月の党中央通知から)ここ数ケ月全党を挙げて力を集中して食糧の統一買上げ工作を進めていたため、多くの地域で新たに設立された農業合作社が崩壊したり、社員が脱退したり、さらには大量の家畜の売却、羊の屠殺、樹木の伐採などの現象が続々と発生

2.7 分岐の所在

p.63 1955年の事件は、「十月会議」の批判を経過して、農村で「社会主義高潮」が起こり、そして終わった。現在、我々は当時の歴史を回顧して、多くの要素が重なり作用したことをみいだすことができる。その中に鄧子恢と毛沢東、二人の性格の違いという要素、これはたしかに表面的に存在することだが、記述に値することだろう。  鄧子恢は知識分子出身で、日本で学習の日々を過ごしたことがあり、かつて学徒であったし、店員であったし、民間の風俗情況をよく知っており、とても長い時間、旧ソビエト区

2.8 劉少奇の悲劇 1951-1962

 写真は左が陳雲、右が劉少奇である。杜潤生の劉少奇についての記述は、参考になるが重要な1962年について簡略すぎて事実を見るに不十分である。そこで《劉少奇在建國后20年》から1962年1月の7000人大会から同年7月の北戴河会議までの経緯部分を以下の下半分に引用しておく。1962年という年は大躍進の失敗が明らかとなり毛沢東を権力から引きずりおろす言わば最後の機会だったが、結局そのようなことは誰も起こさなかった。他方で毛沢東は、集団経済=社会主義経済の優位性に党幹部が懐疑的であ

3.1 3.2 集団経済と人民公社

農村漁村文化協会訳 pp.112-121 毛沢東は「所有制が変われば、必ず生産力の大きな発展があるので、推進を促すことができるだけで、後退を促すことはできないし、盲進に反対するのはいかなる場合も誤りである」と信じていた p.113 (私も毛沢東の書いたものを読むとき、毛沢東はこのように信じていたと感じる。つまり生産関係決定論である。その意味では所有制が変われば、農民の生活水準も向上すると考えていた。大躍進のもとで生じた大後退は、意図とは逆の結果であった。半面、大衆の情熱的

3.3 包産到戸の意義

『中国農村改革の父 杜潤生自述』農村漁村文化協会2011年8月pp.121-131 1956-1957年 合作化が進められると脱退騒ぎとともに、包産到戸の動きが表面化した、脱退は集団化に反対するものだが、包産到戸は制度内部の修正といえる、と杜潤生はいう。p.121 生産請負 作業請負を生産隊ではなく農家に請け負わせるものp.121 合作社はむりやり設立されたもの 内部で個別経営(単干)を実施するものp.122 浙江省永嘉県の経験 pp.123-124  包産到戸で減少した