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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#廬山会議

王丹 中華人民共和国史十五講③ 中ソ関係と文化大革命 1952-69

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫2014年 第6講から第8講の抜書(写真は占春園の大イチョウ)。 p.231   重要なのはソ連との関係であった。・・・高崗が党から除名処分にされた(1955年)とき、その理由の一つはスターリンが高崗を高く評価したことであった。いまや、彭徳懐も似たような疑惑を身に受けることになったのである p.238   (廬山会議後の軍隊上層部彭徳懐勢力の粛清) 軍隊内部で異なる意見が醸成される可能性が、みごとに取り除かれてしまった  p.

中ソ緊張激化と廬山会議 1958-60

魯彤 馮來剛 黃愛文《劉少奇在建國后的20年》遼寧人民出版社2011年 陽雨《“大躍進”運動紀實》東方出版社2014年 黃崢《風雨歷程:晚年劉少奇》人民文學出版社2018年    等  1956年にフルシチョフが行ったスターリン批判。その後起きたハンガリー事件に際して、ソ連が中国共産党の意見を求めたことは先に述べた。しかし両党の関係はその後次第に悪化した。  1958年にはソ連が中国領内にレーダー基地を設けることとと共同艦隊構想を示したことに、これは軍事的に支配するものだと

彭徳懐 給毛主席的信 1959/07

彭徳懐同志于一九五九年七月十四日給毛澤東的信。《彭德懷自述》人民出版社2019年(1981年出版のものの再版)238-243 廬山会議で彭徳懐失脚の原因となった手紙の全文である。この私信のどこが、毛沢東の苛立ちを誘ったのか(毛沢東はこれを《彭徳懐同志的意見書》として印刷して会議参加者に配布。同調者が多いとみるや反撃に転じた)。綿密に検討する価値はあるだろう。ただこの短い手紙だけを理由に毛沢東が、彭徳懐を追い詰めたとは思えない。二人の間の長年の確執、毛沢東とすれば彼に異論を提起

張聞天 廬山会議補充発言1959年7月24日

 以下は張聞天の《在廬山會議上的補充發言  1959年7月24日》載《張聞天文集四》中共黨史出版社2012年修訂版231の翻訳である。廬山会議で、彭徳懐の意見書が公開され、それに同調した張聞天などを毛沢東は、追いつめる態度をとった(7月23日)。これに対して張聞天は1959年7月24日補充発言を行い、民主の風気の重要性を訴えた。会議に生じた異常な緊張状態ー張聞天たちが孤立した情況をこの発言はよく示唆しているように思われる(写真は水道橋から神田川を望む 2021年6月25日)。

外交政策をめぐる毛沢東と張聞天 1959

  張聞天(1900-1976)は毛沢東の前の中国共産党総書記(1935-1943)。第二次大戦後、新中国でソ連大使(1951-1954)を務めたほか、各種国際会議に中国代表として出席。1955年1月からは外交部常務副部長。しかし廬山会議(1959)で、毛沢東の経済政策を批判したことで失脚し、文革でも激しい攻撃を受けた。逝去後の1979年に名誉回復された。毛沢東から批判を受けた論点として、外交政策をめぐる問題がある。これを論じた本として以下がある。     蕭揚《張聞天與中國

葉永烈 李鋭と廬山会議(1959)

葉永烈《歷史的注脚》中華書局2014年60-61。作家である葉永烈の取材ノートである。李鋭についての記述から廬山会議のところを引用する。取材ノートを読んでいると、沢山のことが分かっていて、なお一部しか字には残せないという作家の思いが伝わる。歴史とはそういうものかもしれない。 p.60   "廬山会議"は二つの重要会議を含んでいる。1959年7月2日から8月1日までの中共中央が江西廬山で開催した政治局拡大会議と1959年8月2日から16日まで挙行された党の八届八中全会である。

鄧力群 廬山会議 1959

以下は鄧力群が1998年4月16日に述べたもの。彭徳懐と毛沢東との間に生じた亀裂がなぜ広がったかについて、中ソ関係が影を落としていたことを指摘する重要な証言である。また彭徳懐と毛沢東との確執が、よく知られていたことも伺われる。鄧力群は彭徳懐の側も、発言に慎重さを欠いたとしている。以下による。鄧力群《我爲少奇同志説些話》當代中國出版社2016年(写真は都立工芸高校)。 p.96     1959年4月中下旬に開かれた第二回全国人民代表大会で、劉少奇同志は中華人民共和国主席に選