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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#李維漢

毛沢東の読書リストについて

毛沢東の読書リストについて            福光 寛  毛沢東(1893-1976)が、中国に「大躍進」や「文化大革命」など国難をもたらした一因に、彼の渉猟範囲が偏っていて、西欧で国王の王権が制限され、民意が選挙を通じて議会に反映されるようになる歴史を、そもそも学んでいないのではないか?という仮説を私は持っている。また彼が仮に読んだとしても。読んだのは中国語の翻訳を通してでありその翻訳の質の問題があり、また彼がそのとき持っていた教養の範囲で、内容をよく咀嚼できたかという

李維漢 国民党の大漢族主義 1940

李維漢《關於回回民族問題的提綱》(1940年4月)載《統一戰綫問題與民族問題》中共黨史出版社(2014年7月 1982年版を大幅に増補したもの)pp.555-563, esp557-558 冒頭「五族共和」の説明がある。 p.557 二. 国民党政府の大漢族主義政策とその影響  ウイグル民族に対する大漢族主義のやりたい放(猖獗)は清代に始まる。清朝の統治者は、ウイグル族間の争い(闘争)をできるだけ利用(挑撥)して,自身の日増しに衰える統治を維持するのに利用(籍以)した。同時

6. 民主党派の主張 1956

 1956年に共産党からはいくつかの重要文書が出されたが、いずれも共産党と民主党派との関係については相互監督の方針に肯定的だった。この状況の中で民主党派からは、さまざまな建言が実際におこなわれた。以下では李維漢 回憶與研究 pp.630-641(1956年統一戦線面臨的新形勢和新任務)からできるだけ、そのことに関する記述を拾うことにするが、これを李維漢はどのような気持ちで書き残したのであろうか。  重要文書については2点の記述を拾う。毛沢東の「十大関係を論ずる」(1956年

少数民族問題 李維漢 大漢族主義再批判 1957

李維漢《關於建立僮族自治區問題的一些看法和意見》(1957年3月)載《統一戰綫問題與民族問題》中共黨史出版社(2014年7月 1982年版を大幅に増補したもの)pp.605-621, esp.610  後段に沙文主義chauvinisimがでてくる。日本では最近、この言葉を使わないように感じた。なお写真は地下鉄飯田橋駅の換気塔、アート作品として設計されている。 p.610 (六) 大漢族主義と地方民族主義の問題への批判を再度述べることにする。大漢族主義が存在しており、目

民主党派・知識人の取扱い   1957

(過渡期について、新中国は共産党と民主党派との関係について一見対等な関係を描いていた。しかしこの関係は、1957年の反右派闘争で根底から覆されてゆく。注目されるのは民主党派と共産党とが相互に監督するといった対等な関係を示唆する表現。もう一つの注目点は、一方で民主党派を思想改造するといい民主党派の縮小を示唆しながら、他方で時間が経過しても党とは別に民主党派・知識分子が新生して存在し党は依然少数派とも読めること。これは一体どういうことなのか?) 李維漢 回憶與研究pp.623-

7.反右派闘争と整風運動 1957

李維漢 回憶與研究 より p.641 1956年社会主義改造が基本完成した後、党は全国各民族人民を全面的に大規模に社会主義建設に転入しはじめた。これは党の八大路線をまじめに貫徹するものだった。しかし1957年から開始された、党内の指導思想に生み出された階級闘争を拡大化する左の誤りは、反右派闘争の厳重拡大化をもたらし、全国で大規模社会主義建設の歴史過程(進程)への転進(転向)を打ち砕いた。  1957年夏季以後、党の指導方針には重大(厳重)な誤りがあり(失誤),国家政治生活と経

李維漢 民族の団結を妨げる民族主義に反対する 1961年9月

李維漢《關於民族工作中的幾個問題》(1961年9月)載《統一戰綫問題與民族問題》中共黨史出版社pp.637-688,esp.655-658 p.655(二)我が国はすでに社会主義段階に入り、国内民族関係においては、p.656 資産階級あるいはいかなるほかの搾取階級の民族主義も、大漢族主義あるいは地方民族主義で現れるものは論ずるまでもないが、すべて我が国各民族の団結を害するだけであり、社会主義と共産主義の事業を害するだけであり、決して何か積極作用を起こせないものである。我