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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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#中ソ関係

楊天石, 沈志華 中国史公開講座 upload in 2019-2020

楊天石*(1936-)(中国社会科学院)蒋介石日記和蒋介石其人 2019/10/01                      24小時大講堂(北京圖書館)    蒋介石は共産党の闘争土改に対して、孫中山の和平土改 双方贏改の方針を受け継いだが大陸では実行できなかった。このことが最終的に大陸を失う大きな原因になった。共産党の廃除私有制、階級闘争、暴力革命に対して、蒋介石は保護合理的私有制、階級合作、非暴力改革を唱えた。国際的には、中国の版図外の被抑圧民族の独立を支持した。大陸

陳雲のロシア留学 1935-1936

 陳雲(チェン・ユン 1905-1995)が1935年にロシアに向けて旅立った話は良く知られている。35年8月5日、上海から海路ウラジオストックに向かい、シベリヤ鉄道でモスクワに着いたのは8月20日(このロシア旅行の経緯は福光寛「鳥籠理論そして陳雲」『成城大学経済研究』第214号2016年12月37-42,esp.52を見よ)。そして翌年12月8日にはモスクワを離れて国境に向かった。モスクワ滞在は1年余り。なお今回資料として一部を訳出する劉芳啓《陳雲的蘇聯情緣》は朱佳木主編《

彭徳懐 1959年7月23日まで

 彭徳懐《彭徳懐自述》人民出版社2019年225-229より.  廬山会議前の緊張した情勢、7月23日の毛沢東による彭徳懐批判に至るまでについての彭徳懐自身の記述である。これは毛沢東宛書簡(1959年7月14日)が出される前後の彭徳懐自身の行動を彭徳懐自身が述べる一級の歴史資料である。明らかなのは、国情を憂える彭徳懐の行動の天真爛漫さである。ただ他方で、毛沢東が自分を襲ってくる可能性を全く彭徳懐は予想しなかったのだろうか?あまりに無防備ではないか、と考えないではない。彭徳懐は

彭徳懐 給毛主席的信 1959/07

彭徳懐同志于一九五九年七月十四日給毛澤東的信。《彭德懷自述》人民出版社2019年(1981年出版のものの再版)238-243 廬山会議で彭徳懐失脚の原因となった手紙の全文である。この私信のどこが、毛沢東の苛立ちを誘ったのか(毛沢東はこれを《彭徳懐同志的意見書》として印刷して会議参加者に配布。同調者が多いとみるや反撃に転じた)。綿密に検討する価値はあるだろう。ただこの短い手紙だけを理由に毛沢東が、彭徳懐を追い詰めたとは思えない。二人の間の長年の確執、毛沢東とすれば彼に異論を提起

鄧力群 廬山会議 1959

以下は鄧力群が1998年4月16日に述べたもの。彭徳懐と毛沢東との間に生じた亀裂がなぜ広がったかについて、中ソ関係が影を落としていたことを指摘する重要な証言である。また彭徳懐と毛沢東との確執が、よく知られていたことも伺われる。鄧力群は彭徳懐の側も、発言に慎重さを欠いたとしている。以下による。鄧力群《我爲少奇同志説些話》當代中國出版社2016年(写真は都立工芸高校)。 p.96     1959年4月中下旬に開かれた第二回全国人民代表大会で、劉少奇同志は中華人民共和国主席に選