マガジンのカバー画像

毛沢東(1893-1976)

84
写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
運営しているクリエイター

2022年6月の記事一覧

朱嘉明先生訪談録:1958-1967

 朱嘉明『中国改革的岐路』聯經(臺北市)2013年1月pp.16-25(1958年小学校への進学から1967年文革2年目まで)。中国の文化大革命について、外部から見ていて釈然としないのは、殺人や文化財の破壊を行ったことの責任が、今も問われていないことだ。これについては、文化大革命だけでなく、そこに至るまでの中国の近代史をみても、同様の殺人や文化財の破壊があること。文化大革命に限定して言えば、その主犯は幹部の子弟と目されること(宋彬彬について)などを指摘できよう。  ところで文

梁漱溟と毛沢東:延安での最初の会談(1938年1月)

 梁漱溟と毛沢東との関係を語るうえで、新中国成立前の両者の関係を知る必要がある。新中国成立前、梁漱溟は2度にわたり延安の毛沢東を訪ねている。ここではその最初の訪問(1938年1月)について述べる。このときの二人はともに、国防参議会の参議員。統一戦線の名のもとに、集められた25人の参議員の一人である。  1937年7月7日の盧溝橋事件による抗日戦争全面化に対して7月15日、中国共産党は、国民党に対して「合作宣言」を出して、共同抗戦を呼びかけた。これを受けて、8月11日国民党中央

李公朴、聞一多暗殺事件(1946年7月)と梁漱溟

 中国民主同盟の中央執行委員であった李公朴、聞一多が昆明で国民党の特務(スパイ)により暗殺されたとされるのは1946年7月11日と15日のことである。この事件は、共産党と国民党の間に立つ、中国民主同盟にとって、国民党を見限ることになる、大きな転換点になる事件だと考えられる。そこに到る時間的な流れを確認したい。ポイントの一つは国共が全面内戦に入る局面での出来事である点だろう。  ところで以下の時間の流れで分からない点の一つは、1946年5月20日(別の資料では5月18日)いった