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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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2021年7月の記事一覧

王丹 中華人民共和国史十五講① 共同綱領と五反運動 1949-52

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫 2014年 王丹のこの本は2回ほど通読している。今回は第1講から第3講までからメモを作成した。 p.35  中共の建国がなされたばかりのころ、最高の政治権力機構は名義上は中国人民政治協商会議であった。・・・注意すべきは、このときに「共同綱領」が確立した国の体制は「新民主主義」であって、「社会主義」ではなかった点である。 p.36  「共同綱領」はこのとき臨時憲法に等しく、中国がようやく最初の憲法を制定したのは1954になってか

王丹 中華人民共和国史十五講② 土地改革と反右派闘争 1950-62

王丹『中華人民共和国史十五講』ちくま学芸文庫2014年から第4講そして第5講から抜き書きをつくる。以下の記述のうち、いわゆる反右派闘争は1957年6月からであるが、その前に胡風批判などが先行しておきている。以下にでてくる大飢饉は1950年代末から1960年初頭にかけてがシビアだった。4000万を超える非正常死をもたらした一大惨事である。 p.112    1950年6月、中央人民政府は綱領的文書「中華人民共和国土地改革法」を発布した。土地改革の目的は、「地主階級の封建的搾取

王丹 中華人民共和国史十五講③ 中ソ関係と文化大革命 1952-69

王丹 中華人民共和国史十五講 ちくま学芸文庫2014年 第6講から第8講の抜書(写真は占春園の大イチョウ)。 p.231   重要なのはソ連との関係であった。・・・高崗が党から除名処分にされた(1955年)とき、その理由の一つはスターリンが高崗を高く評価したことであった。いまや、彭徳懐も似たような疑惑を身に受けることになったのである p.238   (廬山会議後の軍隊上層部彭徳懐勢力の粛清) 軍隊内部で異なる意見が醸成される可能性が、みごとに取り除かれてしまった  p.

匹夫もその志を奪うことはならず(論語) 梁漱溟和毛澤東的大吵 1953/09

(以下はネット上の<禁聞網>からの採録。表題は<梁漱溟触怒毛澤東結局....>   作者は<格丘山>とあり、五十年前に読んだ材料の記憶によるものとある。来源は<華夏文摘>。この1953年の梁漱溟と毛沢東の言い争いは「有名な事件」であるようだ。総路線への公然たる不満、知識人として正面からの異論。毛沢東にここまで正面から言い切った梁漱溟という人もすごい人だと思える。)  1953年9月11日中央人民政府拡大委員会で梁漱溟は大会発言を行い、李富春副総理の重工業発展についての、また

彭徳懐 1959年7月23日まで

 彭徳懐《彭徳懐自述》人民出版社2019年225-229より.  廬山会議前の緊張した情勢、7月23日の毛沢東による彭徳懐批判に至るまでについての彭徳懐自身の記述である。これは毛沢東宛書簡(1959年7月14日)が出される前後の彭徳懐自身の行動を彭徳懐自身が述べる一級の歴史資料である。明らかなのは、国情を憂える彭徳懐の行動の天真爛漫さである。ただ他方で、毛沢東が自分を襲ってくる可能性を全く彭徳懐は予想しなかったのだろうか?あまりに無防備ではないか、と考えないではない。彭徳懐は

彭徳懐 給毛主席的信 1959/07

彭徳懐同志于一九五九年七月十四日給毛澤東的信。《彭德懷自述》人民出版社2019年(1981年出版のものの再版)238-243 廬山会議で彭徳懐失脚の原因となった手紙の全文である。この私信のどこが、毛沢東の苛立ちを誘ったのか(毛沢東はこれを《彭徳懐同志的意見書》として印刷して会議参加者に配布。同調者が多いとみるや反撃に転じた)。綿密に検討する価値はあるだろう。ただこの短い手紙だけを理由に毛沢東が、彭徳懐を追い詰めたとは思えない。二人の間の長年の確執、毛沢東とすれば彼に異論を提起

葉永烈 李鋭と廬山会議(1959)

葉永烈《歷史的注脚》中華書局2014年60-61。作家である葉永烈の取材ノートである。李鋭についての記述から廬山会議のところを引用する。取材ノートを読んでいると、沢山のことが分かっていて、なお一部しか字には残せないという作家の思いが伝わる。歴史とはそういうものかもしれない。 p.60   "廬山会議"は二つの重要会議を含んでいる。1959年7月2日から8月1日までの中共中央が江西廬山で開催した政治局拡大会議と1959年8月2日から16日まで挙行された党の八届八中全会である。

鄧力群 廬山会議 1959

以下は鄧力群が1998年4月16日に述べたもの。彭徳懐と毛沢東との間に生じた亀裂がなぜ広がったかについて、中ソ関係が影を落としていたことを指摘する重要な証言である。また彭徳懐と毛沢東との確執が、よく知られていたことも伺われる。鄧力群は彭徳懐の側も、発言に慎重さを欠いたとしている。以下による。鄧力群《我爲少奇同志説些話》當代中國出版社2016年(写真は都立工芸高校)。 p.96     1959年4月中下旬に開かれた第二回全国人民代表大会で、劉少奇同志は中華人民共和国主席に選

鄧力群 七千人大会 1962

 鄧力群(1915-2015)の七千人大会のときの劉少奇の発言について書いた部分である。これもよく使われる話ではあるのだが、毛沢東などの会議での発言については、書面報告と口頭報告があり、またその内容がかなり違うことがある。口頭報告の内容として伝聞で伝わることが、正式の記録では見たらないことがままある。冒頭のところはその事情を説明している。つぎに劉少奇の問題の発言(口頭報告)の裏にある、彼の大躍進=大飢餓への反省の気持ちがかなり激烈でしかも強固であったことが、この鄧力群の記述か

天は大きな任務を与える人にまず苦しみを与える(孟子)陸鏗《胡耀邦訪問記》1985/06

 「胡耀邦訪問記」は1985年6月1日(雑誌)『百姓』に掲載発表され、(この)文章は当時海内外、国際外交を震撼させた。政治界では中共領袖が示した前例のないオープンな姿に極めて高い関心が集まった。しかし(この記事)での言動は胡耀邦の失脚を招く一因になったことも知られている。採録時間は1985年5月10日午後3時半から5時半。場所は北京中南海で、画期的なインタビューを実現したのは、『百姓』半月刊社長、ニューヨーク『華語快報』発行人の陸鏗である。訪問記は長大である。全文は以下を参照

李鋭 中国はいかに変わるべきか? 2006

李銳《訪談:中國「該」變成什麽樣子?》載《李銳新政見 何時憲政大開張》天地圖書有限公司2009年,57-62    2006年5月の記事の採録 このとき李鋭は満86歳である。 p.57    問:今年は文化大革命発生四十周年、毛沢東、周恩来がなくなって三十周年、「長征」七十周年です。このように長い歳月を経て、中国共産党はどのような(那些)歴史経験と教訓を得たでしょうか。 答:私の個人的経験から、また歴史見証もできるでしょう。私の父親は日本に留学しました(留日的)。そこで同盟