マガジンのカバー画像

毛沢東(1893-1976)

84
写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
運営しているクリエイター

2019年7月の記事一覧

宋彬彬そして黃師

 まず宋彬彬(ソン・ビンビン 1947-)は新中国建国に貢献のあった軍人宋任窮(ソン・レンチオン 1909-2005)の娘(次女)である。彼女は北京師範大学付属女子中学の学生だった1966年、同中学の紅衛兵組織の先頭に立った。彼女の指導のもと、同中学では、多くの教員・生徒が紅衛兵のむき出しの暴力にさらされ、ついには8月5日、校長の下仲耘(シア・チョンユン 1916-1966)が死亡するに致った。事実上の殺人である。これは文化大革命における教育界における殺人の最初の例になった。

胡耀邦 出生から毛沢東を遠望するまで 1915-1927

 胡耀邦の経歴でまず記憶されるのは、まだほとんど子供のときに中共の軍に従軍したことと、ところが従軍して間もなくAB団と疑われてあやうく粛清されそうになったことである。であるがここでは胡耀邦が毛沢東を文家市で初めて遠くに見た1927年までを書く。毛沢東が1927年、長沙に軍を進めないで文家市から南下したのは有名な話だ。軍事力の大きな差があることから賢明な判断ともいえるし、このときの幹部の指示とは違った判断をしたことは規律に反しているようにも見える。いずれにせよ、その決定的な現

胡耀邦 小学校卒業から児童局書記就任まで 1929-1931

  胡耀邦が1930年11月、若年にして共産党の活動に合流してから(胡耀邦の居た地域がかなり特殊で共産党が実質的に支配していた地域であり、従軍というよりは見方によれば行政的な仕事をしていたともいえよう)、AB団関与の疑いを受ける1932年末までについて述べる(写真は根津神社庚申塔 像の右側に寛文八年1668年の文字が読み取れる。2020年7月26日)。 胡耀邦傳 人民出版社/中共黨史出版社,2005年, 15-27 陳利明《胡耀邦從紅小鬼到縂書記 修訂版》人

鄧子恢1961年出版的回顧録 福建省での粛清事件(1930-31)について

 1961年に出版された回顧録の中の一文であり、1930-1931年に生じた福建省(閩西)の中国共産党内にで起きた社会民主党狩りという、反対派粛清(肅反)事件を取り上げている。この事件は江西で起きたAB団事件とともに、多くの冤罪を生んだ。殺された被害者は6000人以上とされている。そもそも社会民主党もAB団も存在自体が疑わしいとされる。リンチや威嚇により自供を迫り、自供すれば直ちに処刑した。鄧子恢はこれを批判している。1961年にこの問題に触れ事実を公にしたことは、勇気を示し