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毛沢東(1893-1976)

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写真は徐州から南京に向かう毛沢東 1957年3月19日
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2019年2月の記事一覧

三反運動 五反運動 1951末‐1952

(薄一波『若干重大決策与事件的回顧』中共党史出版社 1997修訂版の2008年の重版による。) P.98 7. 腐食を防ぐ方針のもと、三反運動を展開する。  抗米援朝、土地改革、反革命鎮圧の3つの運動に勝利したことを基礎に、党中央と毛主席は、1951年末に反汚職(貪污)、反浪費、反官僚主義の「三反」を開始した。これは我が党が政権を握って以後(執政後)、資産階級の党への腐食に意識的に抵抗克服し、共産党人の民を基本とする廉潔な政治を保持するための最初の成功した実践であった。

新税制をめぐる議論 1953

薄一波 若干重大決策與事件回顧;于光遠 新民主主義社會論的歷史命運;公私一律平等納税;新民主主義社会 1953年の新税制をめぐる議論は要注意である。1952年12月31日に人民日報を通じて新税制が発表されると、各省市から書簡が寄せられたほか、「公私一律平等納税」という新税制のスローガンが資産階級の立場に立つものとの毛沢東による批判を引き起こした。確かに、合作社に認めていた減税を取り消すというこの税制は、社会主義社会を目指す政権として少し変である。背景には、優遇税制が税回避を

毛澤東-鄧子恢  小脚女人批判 1955/07

薄一波 若干重大決策于事件的回顧より 写真は鄧子恢のもの。(鄧子恢の中央農村工作部部長就任は1953年2月。その後、1955年1月初め、鄧子恢は劉少奇、周恩来らに農村の緊張情況を報告。中央政治局では、農村合作運動を当面抑制(控制)そることを決定していた。この決定について毛沢東は同意していたが、1955年4月下旬、自ら南方を視察、農民の積極性を高いと見て、鄧子恢の方針は、農民の積極性を妨げると判断するように変化した。5月さらに6月下旬と鄧子恢と議論している。この6月下旬の議論は

6. 民主党派の主張 1956

 1956年に共産党からはいくつかの重要文書が出されたが、いずれも共産党と民主党派との関係については相互監督の方針に肯定的だった。この状況の中で民主党派からは、さまざまな建言が実際におこなわれた。以下では李維漢 回憶與研究 pp.630-641(1956年統一戦線面臨的新形勢和新任務)からできるだけ、そのことに関する記述を拾うことにするが、これを李維漢はどのような気持ちで書き残したのであろうか。  重要文書については2点の記述を拾う。毛沢東の「十大関係を論ずる」(1956年

民主党派・知識人の取扱い   1957

(過渡期について、新中国は共産党と民主党派との関係について一見対等な関係を描いていた。しかしこの関係は、1957年の反右派闘争で根底から覆されてゆく。注目されるのは民主党派と共産党とが相互に監督するといった対等な関係を示唆する表現。もう一つの注目点は、一方で民主党派を思想改造するといい民主党派の縮小を示唆しながら、他方で時間が経過しても党とは別に民主党派・知識分子が新生して存在し党は依然少数派とも読めること。これは一体どういうことなのか?) 李維漢 回憶與研究pp.623-

7.反右派闘争と整風運動 1957

李維漢 回憶與研究 より p.641 1956年社会主義改造が基本完成した後、党は全国各民族人民を全面的に大規模に社会主義建設に転入しはじめた。これは党の八大路線をまじめに貫徹するものだった。しかし1957年から開始された、党内の指導思想に生み出された階級闘争を拡大化する左の誤りは、反右派闘争の厳重拡大化をもたらし、全国で大規模社会主義建設の歴史過程(進程)への転進(転向)を打ち砕いた。  1957年夏季以後、党の指導方針には重大(厳重)な誤りがあり(失誤),国家政治生活と経

于光遠「新民主主義社会論」的歴史命運 1988~1998/2005

 手元にあるのは2005年に長江文芸出版社から出された韓鋼の注記がはいったもの。韓鋼の序文によれば、この元は1988年から1998年の間に于光遠が書いていたメモである。ここではその結論部から訳出するが、于光遠という人の柔軟な思考の成果がうかがえる。  前半p.235~の引用は、現状をそのまま「中国の特色ある社会主義」だとしている。そこには無理をして背伸びをしたところがない。後半p.238~は、理想的には新民主主義社会を続けて資本主義的発展を続け、次第に社会主義的発展が中心にな