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馬寅初,陳雲,薄一波

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馬寅初(1882-1982)を中心。陳雲(1905-1995)、薄一波(1908-2007)も扱う。
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2020年5月の記事一覧

蔡元培,馬寅初,胡適について

                             福光 寛     この10年ほど中国のことを考えてきて、最近この3人のことを考えるようになった。ただまだまだ資料を読み足らないし、分野が違うこの3人を比較するのはかなり大変な作業だが。ここでは問題意識だけ述べる。(写真は湯島聖堂の孔子像。)     馬寅初(マア・インチュ 1882-1982)は財政学者としてよりは、人口論で毛沢東と対立して北京大学校長をやめさせられたことで有名だが、蒋介石統治下の中国で蒋介石批判をして

蔡元培 北京大学での経験 1912-1919

蔡元培《我在北京大學的經歷》載《蔡元培自述   實庵自傳》中華書局2015 pp.11-31  esp.11-14,  26-27  教育部長として示した大学の在り方についての見解(1912年)、陳独秀を文科学長に起用した顛末(1916年末)、元培学長就任時の北京大の様子(1917年初)、五四運動時の学生運動への対応(1919年)などの部分を抄訳する。歴史上、大変重要な記述であることはあまりに明白である(写真は東京大学本郷キャンパス)。 p.11   北京大学の名称は民国元

蔡元培 北大校長就任演説 1917

 蔡元培は渡欧してフランスにいたときに、北京大学校長就任の要請を教育部から電報で受けて帰国した(写真は東京大学本郷キャンパスにて安田講堂)。多くの友人は北京大学の腐敗はひどくとても整頓できたものではないと、就任に反対したが、少数の友人は、誰かが整頓せねばならないとして、我を抑えて整頓を試みることを勧めた。自分はこの少数の友人の勧めに従い、北京に向かったとしている。(蔡元培《我在教育界的經驗》載《蔡元培自述  實庵自傳》中華書局2015年pp,3-43, esp.39)    

馬寅初と五四運動 (鄧加榮2006)

鄧加榮《我國經濟學泰斗  馬寅初》中國金融出版社2006年pp.25-26(写真は水道橋から神田川沿いに「お茶ノ水坂」をあがるところ。右手に見えるオブジェは神田上水の懸樋を示している。)  p.25   過去においては官僚政客たちに支配(把持)されていた北京大学、多くの人により、この京城の最高学府は、官位を上がり(昇官)、入省(入部)、国会入りの階段(階梯)とされ、多くの教員は行政省庁(官府的門)に一方の足を置き、他方の足は官学の組織(官学衙門的門)に置いて、空いた時間に馬

馬寅初の北京大学校長就任 1951/05

馬玉淳《馬寅初的故事》浙江古籍出版社2006年,  pp.167-169 中国の大学を代表するとされた北京大学校長になった馬寅初(写真は礫川公園)。しかし就任した彼は、大学の方向付けは党中央が決めることであると断言する。こうした党の指導に従う態度はその後も繰り返される。こうした言動はどこまで本心だったのだろうか。疑問として残るのは、教育の専門家として経済学者として、党中央の指導と違う判断がでることはないのかということである。判断というのは、誰もが間違える。一連の馬寅初の控え目

陳雲 誤りを糺す 1978/11/12

這是陳雲同志在中央工作會議東北組的發言。《陳雲文選 第三卷   第二版》1995年pp.232-235(写真は占春園のそばにて。右手が占春園。左手には放送大学校舎がある。) p.232 中央政治局常任委員会、中央政治局は一致して次のことを主張している、来年から工作の重点を社会主義建設開始に移すと。四つの現代化の実現は全党と全国人民の切迫した願望である。私は中央の意見に完全に同意する。安定団結はまた全党と全国人民の関心事である。幹部と大衆(群衆)が党内に対して、安定団結できる

陳雲 当面の経済問題 1978/12/10

這是陳雲同志在中央工作會議東北組的發言。《陳雲文選 第三卷 第二版》人民出版社1995年, pp.235-238 p.235   四つの現代化の実現は、わが国の歴史で前例のない、はじめての偉大な進軍であり、積極的かつ沈着に行う(必要がある)。    今年7月31日、私は、かつて李先念同志に提出した。国務院が開催した討論会議(務虛會議)で数日の時間を用いて、もっぱら消極的意見を聞いた。我々はまずは積極的意見を聞かねばならず、また消極的意見を聞かねばならない。  我々は実際に即