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私の東京案内

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#神奈川県

ポーラ美術館

 ここも久しぶりの再訪だ。今回は、「部屋のみる夢 ボナールからティルマンス、現代の作家まで」(2023.1.28-7.2)+所蔵名品展を見て来た。ポーラはきちんとしたレストランがあるし、写真撮影がかなり自由であることは嬉しい。今回の展示で所蔵作品では、藤田嗣治(つぐはる 1886-1968)の作品が多数出ていた。ただ残念に感じたのは、現代美術の作品が多数、並べられているなか、所蔵品の核であるはずの印象派の作品は少数しか展示されていなかったことだ。ポーラの所蔵品が現代美術に広が

鎌倉大仏

 鎌倉大仏は台座からの高さは13.4M、仏身は11.3Mとされる(銅造阿弥陀如来坐像 重要文化財指定明治30年1897年・国宝指定昭和33年1958年)。他方、東大寺の大仏は仏身だけで15M, 台座を合わせると18Mとされる。大きさで言えば、鎌倉大仏は東大寺大仏にかなわない。東大寺の大仏は開眼法会が天平勝宝4年752年とされる。鎌倉大仏は鋳造を始めた年が建長4年1252年と分かっているが、完成した年つまり開眼法会が行われた年が分からない。歴史的由来は東大寺大仏は8世紀に遡り、

川崎大師平間寺

 「かわさきだいしへいけんじ」と読む。川崎大師は大正12年1923年の関東大震災で大きな被害を受け、一旦そこから復興したにもかかわらず、第二次大戦時の川崎大空襲(昭和20年1945年4月15日夜)で全焼した。  現在の伽藍は、そうした壊滅した状態からの復興であることを考えると意義深い。  その復興の建築設計を担ったのは、大岡實(みのる 明治33年1900年―昭和62年1987年)という人。この人の名前は、浅草寺本堂(昭和29年1954年)、あるいは増上寺大殿(昭和48年197

長谷観音(はせかんのん)

 鎌倉長谷の観音(かんのん)さまにお参りをしてきた。この観音さまは、正確な製作年代がわかっていない。私は昔からこの観音様はいつのものかとその製作年代に関心をもってきた。現在、長谷観音では造立1300年を祝っているので、以下の寺伝を根拠に721年造立説に立っていることになる。  寺伝に依れば徳道上人が養老5年721年十一面観音菩薩二体を巨大な霊木から彫刻し、一つを奈良長谷寺に納め、一つを人々の救済を願って海中に投じたところ、天平8年736年に至り三浦半島長井浦に忽然と現れた。そ

遊行寺(ゆぎょうじ)

 かつて藤澤に住んでいた折に、時々訪ねたのは、この遊行寺と龍口寺だった。遊行寺の正式名称は清浄光寺。時宗の総本山である。  時宗は四天王寺や高野山でも学んだ一遍上人(1239-1289)が始めた。今回、遊行寺を訪ね、徳川家との関係や、明治天皇が遊行寺に宿泊されたことなどを学んだ。一遍上人というと、念仏踊りが思い出され、庶民的な教えというイメージが私には強いが、どうもこのお寺はそれだけではないようだ。  開山は遊行四代上人呑海にょり、正中二年(1325年)。その後、戦乱のため当

龍口寺(りゅうこうじ)

 日蓮(1222-1282)が龍ノ口刑場で鎌倉幕府によって処刑される危機に陥ったのは文永8年1271年9月13日の明け方のこと。伝承ではこのときまばゆい光が、刑の執行を妨げ、そこに刑の中止を伝える伝令が到着。日蓮は一難を逃れたとされる。その「龍ノ口の法難」の跡地に龍口寺がある。  この寺は、私が藤澤に在住していたときに、時折尋ねたのであるが、正直にいえば、山頂部に向かう坂は急峻でいまだに全容を見るには至っていない。アクセス自体は江ノ電の「江の島」駅から江ノ電の鎌倉方面に向けて