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#日蓮宗

与野の大カヤ

 このカヤ(榧)は後一条天皇(在位1016-1036)の長元年間(1028-1037)に植えられたものとされる。その後、鎌倉時代にカヤの木のそばに禅宗建長寺派の寺が建てられ、カヤの木も神木として大事にされ金比羅天も祀られていた。応永15年1408年の春、時の寺僧周如禅師が法華経を信ずるようになっていたところ、鈴谷郷の金毘羅天による、明日、高僧がくるからその教えに従うようにとのお告げがあった。時を同じくして下総中山の日英上人に鈴谷郷の金毘羅天による、鈴谷で布教するようにとのお告

池上本門寺

 日蓮宗大本山である。江戸時代に秀忠や吉宗など徳川将軍家の信仰が厚かった。この寺は弘安5年1282年に日蓮上人がこの地で入滅されたときに、池上宗仲公が約7万坪の土地を寄進したことが始まりである。それで池上本門寺と呼ぶ。  また昭和20年1945年4月15日のいわゆる川崎大空襲で伽藍のほとんどを焼失したものの、惣門、五重塔、宝塔、経蔵が焼失を免れた不幸中の幸運も知られている。その後、大堂を昭和39年1964年に、また仁王門(三門)を昭和52年1977年に、再建し、墓石などに戦災

円融寺について

    慈覚大師円仁(748-864)により天台宗の寺として開基(仁壽3年853)。天台宗法服寺と称した。その後、日蓮(1222-1282)の弟子の日源上人により1283年日蓮宗に改宗。妙光山法華寺と改名。世田谷吉良氏からも崇敬を受けた。しかし不受不施の教義であるため江戸幕府から弾圧を受けた。そのため元禄11年1698年に天台宗に戻され(日源上人との関係、不受布施派として弾圧を受け天台宗とされたこと、などは谷中の感応寺、のちの天王寺と同じ。しかしこの寺はもともとは天台宗だった

中山法華経寺について

 法華経寺は日蓮(1222-1282)に帰依した富木常忍(日常)が下総国若宮に法華堂を建てたことに始まる(1253年)。ところで日蓮は1260年に浄土門徒宗の襲撃を受けて富木の屋敷に落ち延びる。このとき地元の豪族太田乗明の助力もあり、法華経寺の基礎が固まった。参道を進んで最初に左手に現れるのは祖師堂(1678 重要文化財)。比翼入母屋造りという特殊な構造の屋根。右手正面には前田利光(1559-1628)寄進の朱塗りの五重塔(1622 重要文化財)。高さ98尺(30M)。そして

堀之内妙法寺

 再訪である。今回は東高円寺駅から「蚕糸の森公園」を抜けて環七通りを南に下り、「妙法寺入口」から妙法寺に入った。蚕糸の森公園は小規模だが池もあり、恵まれた風景。ただ環七通りは車通りが多く興ざめではある。  妙法寺は最近、「波の伊八」(武志伊八郎信由1752-1824)の彫刻があることで改めて注目された(波の伊八と妙法寺)。  日蓮宗本山とある。身延山久遠寺から元禄12年1699年3月に迎えた祖師像を祀る。久遠寺の直末寺。祖師像は日蓮の弟子の日郎上人が、弘長元年1261年伊豆

龍口寺(りゅうこうじ)

 日蓮(1222-1282)が龍ノ口刑場で鎌倉幕府によって処刑される危機に陥ったのは文永8年1271年9月13日の明け方のこと。伝承ではこのときまばゆい光が、刑の執行を妨げ、そこに刑の中止を伝える伝令が到着。日蓮は一難を逃れたとされる。その「龍ノ口の法難」の跡地に龍口寺がある。  この寺は、私が藤澤に在住していたときに、時折尋ねたのであるが、正直にいえば、山頂部に向かう坂は急峻でいまだに全容を見るには至っていない。アクセス自体は江ノ電の「江の島」駅から江ノ電の鎌倉方面に向けて