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私の東京案内

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#夏目漱石

上野寛永寺について

    徳川家康(天文11年1542年-元和2年1616年)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643年)が徳川家光(慶長9年1604年-慶安4年1651年)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門(positioned the north-east direction, an lucky direction or the demon gate of Edo city )にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそう

円覚寺

 円覚寺(えんがくじ)はJR北鎌倉のほぼ駅前にあるので、気軽に立ち寄ることができる。昨日ふと思い立って、円覚寺を訪ねた。国宝舎利殿のことを思ったのだが、現地にたどり着いてから舎利殿の公開日が限られていることを思い出した。しかし、山門と仏殿を見て、来訪の目的を十分を達したように感じてしまった。  円覚寺は弘安5年1282年の創建。北条時宗が宋より招いた無学祖元禅師(1226-1286)により開山。その目的は蒙古襲来(文永11年1274年の文永の役,そして弘安4年1281年の弘安

音羽護国寺について

                           福光 寛     護国寺は5代将軍徳川綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)が母桂昌院(寛永4年1627-宝永2年1705)の願いにより天和元年1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺(shogunate prayer temple)となった。江戸中期の仁王門(Nio-mon:Deva gate:a temple gate with the statute of a Deva king standin

小石川傳通院

                             福光 寛  永井荷風(明治12年1879-昭和34年1959)は随筆「傳通院」(明治42年1909年頃)において、パリにノオトルダム寺院があるように「私の生まれた小石川をばあくまで小石川らしく思わせる」るものは「あの傳通院である」としている。  賛美の言葉が続く。「滅びた江戸時代には芝の増上寺、上野の寛永寺と相対して大江戸の三霊山と仰がれたあの傳通院である。」「傳通院の古刹は地勢から見ても小石川という高台の絶頂でありま

芝増上寺について

                          福光 寛       聖聡上人により明徳4年1393年に現在の麹町から平河町にかけて開かれた浄土宗鎮西派の大本山。浄土宗の中では、西の知恩院に対して東の大本山の位置。慶長3年1598年に江戸城拡張のため現在地に移された。徳川家康の崇拝帰依を受け、家康の葬儀の祭礼はここで行われた。三河以来、徳川氏が浄土宗であることによる。以後、寛永寺とともに徳川将軍の菩提寺(shogunate family temple)の役割を演じる。幕府

柴又帝釈天

  柴又(しばまた)の駅から徒歩5分ほどで二天門に達する。柴又帝釈天(たいしゃくてん)。ここはもともとは題経寺という日蓮宗のお寺として寛永6年1629年に開創された。やがて日敬上人(にっきょうしょうにん)の代になって、本堂を修理していたときに、日蓮上人親刻とされる板本尊がみつかった(片面の中央には「南無妙法蓮華経」とお題目が、もう片面には帝釈天が彫刻されている)。ときに安永八年1779年の庚申(かのえさる こうしん)の日であった。時ならず、おりしも天明の飢饉(天明2年1782

ニコライ堂について

 いわゆる「ニコライ堂」(Nikolai-do :Holy Resurrection Cathedral)である。ニコライとは正教会布教のため文久元年1861年に来日したニコライ・カサートキン(1836-1912)のこと。「ニコライ堂」はその発願が実り明治24年1891年に竣工。日本で最大のビザンチン様式(Byzantine style)の建築として知られる(よく指摘される概数によれば、高さ35m  ドームの直径15m  面積805㎡ )。大正12年1923年の関東大震災で被