マガジンのカバー画像

私の東京案内

200
運営しているクリエイター

#重要文化財

三田演説館と福澤諭吉胸像

 慶應義塾大学三田キャンパスには国の重要文化財に指定されている建築物が二つある。一つがこの「三田演説館」もう一つは「図書館(旧図書館)」である。  「三田演説館」は明治8年1875年5月の竣工。大正13年1924年移築。都内に残る明治初期の洋風建築は貴重であるとして、昭和42年1967年6月に重要文化財に指定されている。木造瓦葺。壁は明治時代の建築に多い「なまこ壁」だが、窓は洋風であり、洋風を模して造られたことを伺わせる。  この建築の「おもしろさ」について以下を参照。  藤

慶應義塾大学図書館と塾監局

 慶應義塾大学三田キャンパスの建物はそれぞれ個性的で魅力があるが、その中で、華麗という表現があてはまるのは慶應義塾大学図書館(旧図書館)だろう。  慶應義塾大学図書館は明治45年1912年4月に竣工した。設計は、曾禰達蔵(嘉永5年1853年ー昭和12年1937年)、中條精一郎(慶應4年1868年-昭和11年1936年)の二人。その後、大震災(大正12年1923年)そして昭和20年1945年5月の空襲でも被害を受けた。現在の建物はこれらの被害からの修復を経たもの。昭和44年19

大隈記念講堂

 大正11年1922年に大隈重信が亡くなったとき、大隈記念講堂の建設が議論された。しかし翌大正12年1923年に関東大震災が起き、計画は一時頓挫。大正14年1925年頃から建設の議論が再燃し、かつ早稲田大学の建築科の教授陣を中心に改めて設計が行われることになった。設計の中心を担ったのは、佐藤功一、内藤多仲、佐藤武夫ら教授陣。戸田組(現戸田建設)が建設を担った。昭和2年1927年10月竣工。  平成19年2007年12月、ロマネスク様式(たとえば回廊部の半円アーチのモチーフの連

清洲橋(きよすばし)

 最近、時々使うバス路線は秋葉原から葛西に行くもの。このバスが清洲橋を通過することが分かっていたので、今日は時間を作って、清洲橋を見に行くことにした。下車したのは、「清澄1丁目」。下車は「清洲橋」でもよいが、バス停「清洲橋」は近くに高速道路の「清洲橋出口」があり、あまり環境が良くない。「清澄1丁目」からのアクセスを推奨する。徒歩5分弱で清洲橋のたもとに到着する。川辺に降りると隅田川に沿って、隅田川テラスと呼ばれる公園が整備されており、散策し橋の姿の変化を楽しめる。  清洲橋は

鳥取藩池田家上屋敷表門

 上野の東京国立博物館の敷地の中にあるが、道路沿いなので外から見学できるのが旧因州池田屋敷表門(鳥取藩池田家上屋敷表門)。東京大学の赤門に対して黒門と呼ばれる。元は丸の内三丁目、つまり東京国際フォーラムあたりにあった。明治時代東宮御所正門として使用されてのち、高松宮邸に引き継がれることで、保全されたともいえよう。屋根の形は赤坂にある岡崎藩本多家屋敷門は切妻だったが、こちらは入母屋。左右に唐破風(からはふ)屋根の番所を備えるのは東京大学の赤門と同様に、格式の高さを示すもの。なお

岡崎藩本多家屋敷表門

 幕府老中方(岡崎藩本多家)屋敷の表門である。五万石以上の大名に許される格式の門とされる。文久二年1862年の火災後の再建である。当時は現在の丸の内、東京駅の南口近くにあったが、変遷ののちに、現在は、赤坂見附の山脇学園の校舎近くに移築、保存されている。重要文化財。  なお岡崎藩本多家は譜代大名で石高は五万石とされる。 戊辰戦争直前に新政府軍に加わったとのこと。  また現在この門は桁行21.8mであるが、もとはその6倍120mの長大な規模のものであったが、それを縮めたとしている

東京大学赤門

 東京見物に来た人を案内するのにどこがいいかはむつかしい。こちらであれこれプランを作るより、その人が見たいもの、経験したいことを聞いて、実現してあげる心のゆとりをもちたいものだ。さて東大の赤門はどの程度の人がぜひ自身見たいものに上げるだろうか。   そこに少し疑問があるが、赤門は知名度という点で東京を代表するものの一つだ。   赤門は、ここに加賀藩上屋敷があった名残である。11代将軍家斉(いえなり)の娘溶姫(ようひめ、やすひめ)を加賀藩当主前田斉泰(なりやす)が正室として迎え

芝増上寺三解脱門

 東京の街を歩いて、最後はこの門に戻ってくる。元和8年1622年築造だが、増上寺の中で、江戸初期の様式を残すのはこの門のみという意味でも貴重な遺構である。間口十間余(約19m)、奥行き五間(約9m)、高さ七丈(約21m)。屋根は入母屋造り。二階建て三戸二重門であり、勾欄(欄干のこと )がある。重要文化財。  アクセス 都営地下鉄三田線芝公園下車徒歩5分。

東京駅 Tokyo Station

 東京駅は日本の文明開化の象徴だと思う。その駅舎が大正3年1914年の創建当時の姿に復元されたのは平成24年2012年のこと。今、堂々たるこの駅舎をみると、欧米に列しようと努力した昔の人の心意気を感じて少し誇らしい気持ちになる。  東京駅が辰野金吾たちの設計により着工されたのは明治43年1910年8月1日のこと。竣工は大正3年1914年3月のこと(建設の重責を担ったのは大林組である。東京中央停車場。)。その後、関東大震災(大正12年1923年)があり、第二次大戦では空襲による

明治大学博物館

 既設の「刑事博物館」「商品博物館」「考古学博物館」を統合して、2003年12月に竣工した「アカデミーコモン」内に2004年に開設されたのが、「明治大学博物館」である。「アカデミーコモン」は市民向けの公開講座なども行う施設のようだが、そこに博物館を併設して、施設全体が大学の公開施設として市民との交流を図る姿勢はとても先進的に思えた。今回初めて見学したが、大学の広報施設としての側面が前面に出ていることを好ましく感じた。  地下1階の部分に事務室、図書室のほか「大学史展示室」と特

池上本門寺

 日蓮宗大本山である。江戸時代に秀忠や吉宗など徳川将軍家の信仰が厚かった。この寺は弘安5年1282年に日蓮上人がこの地で入滅されたときに、池上宗仲公が約7万坪の土地を寄進したことが始まりである。それで池上本門寺と呼ぶ。  また昭和20年1945年4月15日のいわゆる川崎大空襲で伽藍のほとんどを焼失したものの、惣門、五重塔、宝塔、経蔵が焼失を免れた不幸中の幸運も知られている。その後、大堂を昭和39年1964年に、また仁王門(三門)を昭和52年1977年に、再建し、墓石などに戦災

上野寛永寺について

    徳川家康(天文11年1542年-元和2年1616年)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643年)が徳川家光(慶長9年1604年-慶安4年1651年)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門(positioned the north-east direction, an lucky direction or the demon gate of Edo city )にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそう

上野東照宮について

   徳川家康(天文11年1542-元和2年1616)の死の翌年にあたる元和3年1617年、日光に東照宮が造営された。東照宮の名称は太陽神たる天照大神(あまてらすおおみかみ)になぞらえて家康の神号を東照大権現としたことによる。元和4年1618年に江戸城内紅葉山にも東照宮を建立。その後元和9年1623年に、一般志士に江戸近くに参拝の機会を与えようと藤堂高虎(弘治2年1556-寛永7年1630)が自身の屋敷地であった上野の山に祠を設けたのが上野東照宮の始まり。  高虎の死後も、長

円覚寺

 円覚寺(えんがくじ)はJR北鎌倉のほぼ駅前にあるので、気軽に立ち寄ることができる。昨日ふと思い立って、円覚寺を訪ねた。国宝舎利殿のことを思ったのだが、現地にたどり着いてから舎利殿の公開日が限られていることを思い出した。しかし、山門と仏殿を見て、来訪の目的を十分を達したように感じてしまった。  円覚寺は弘安5年1282年の創建。北条時宗が宋より招いた無学祖元禅師(1226-1286)により開山。その目的は蒙古襲来(文永11年1274年の文永の役,そして弘安4年1281年の弘安