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私の東京案内

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#高浜虚子

上野寛永寺について

    徳川家康(天文11年1542年-元和2年1616年)の信頼が厚かった天海(生年不明-寛永20年1643年)が徳川家光(慶長9年1604年-慶安4年1651年)から寺領を受けて寛永2年1625年に開創した天台宗の寺。天台宗関東総本山。江戸城の北東の鬼門(positioned the north-east direction, an lucky direction or the demon gate of Edo city )にあって京都の比叡山延暦寺が平安京に対してそう

音羽護国寺について

                           福光 寛     護国寺は5代将軍徳川綱吉(正保3年1646-宝永6年1709)が母桂昌院(寛永4年1627-宝永2年1705)の願いにより天和元年1681年に建立したもの。護国寺はその後、徳川将軍の祈願寺(shogunate prayer temple)となった。江戸中期の仁王門(Nio-mon:Deva gate:a temple gate with the statute of a Deva king standin

九品仏浄眞寺について

 九品仏(くほんぶつ)浄眞寺。浄土宗。江戸時代の規模をほぼ失わずに伝えている。1965年に本堂(1698)、仁王門(1793)がそれまで茅葺だったのを銅版葺にした。また1983年の大修復工事で三仏堂(1698-99)の威容が取り戻された。三仏堂に九品仏(くほんぶつ)がある。現在、この九品仏の修復作業が進められている。それが終わると九品仏すべてが金色の輝きを取り戻すことになる。  では九品仏とは何か。観無量寿経と呼ばれるお経によれば、人の往生の階位は信仰の深浅や罪業の有無や

小石川植物園

 貞享元年1684年江戸幕府は小石川御殿内に小石川御薬園を置いた。小石川御薬園内にはさらに享保2年1722年小石川養生所が置かれた。その後、明治時代に入り、明治10年1877年旧小石川御薬園は東京大学付属の植物園とされて現在に至っている。  園内西端には旧東京医学校本館がある。この建物はもともとは本郷の赤門近くにあったもので、重要文化財(昭和44年1969年に当地に移設された。明治44年に赤門脇に移設するときに、元の形を縮小している。明治9年1876年に完成した元の建物は、時

心光寺石仏について

 心光寺は都営地下鉄三田線白山駅から下りてすぐにある浄土宗のお寺。傳通院の末寺で1628年に開基。1653年から当地にある。江戸期の極めて多数の石仏がある。石仏の表情はいずれも大変おだやか。舟形墓石浮彫と思えるものが、ほとんどで、死者の戒名と思われるものが刻まれている。刻まれているのは、右膝を立て手に蓮華らしきものを持つものは如意輪観音菩薩(手に何も持たず思惟にふけるものは弥勒観音菩薩)、あるいは、頭を丸め袈裟をまとい僧形のものは地蔵菩薩、などに見える。お顔がまた一体ずつ異な

浅草寺(せんそうじ)

 天気が良かったので浅草寺に写真を撮りに行った。浅草寺のいわれについては、浅草寺のHPに詳しいので参照されたい。浅草寺は昭和20年1945年3月10日の大空襲で、関東大震災では焼失を免れた江戸期の伽藍のほとんど(本堂、仁王門、五重塔、経蔵、観音堂など)を失った。現在の伽藍の多くは、第二次大戦後の再建である。  ところで入口にある雷門(かみなりもん)は主要伽藍とは事情が少し異なる。江戸期末の慶応元年1865年の火事で先に焼失。第二次大戦前は再建されなかったもの。それを松下幸之助

瀧泉寺(りゅうせんじ)大仏

   世間的には目黒不動尊であるが、実は瀧泉寺というお寺である。なお瀧の音読みはロウだが、それをリュウと読ませている。江戸期の伽藍はすでにないが、天和3年1683年鋳造の銅造大日如来坐像が本堂の後ろに健在である。私は目黒不動尊は十数年ぶりの再訪だったが、緑の中のお姿は大変美しく感じた(大仏像として諸像と比較するとスリムで若々しく、若い青年のようにも感じる。手の形が法界定印あるいは禅定印とよばれるものであり、大日如来である。)。高さ385cm、座高281.5cmとのこと。  参