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趙紫陽(1919-2005)

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2020年3月の記事一覧

趙紫陽と内蒙古、広東 1971/05- 75/10

 以下の資料をまとめた。   盧躍剛《趙紫陽傳》INK印刻文学生活雑誌出版2019年   罗平汉《墙上春秋 大字报的兴衰》中共党史出版社2015年   《中国共産党簡史》人民出版社2011年  《増訂新版 ”文化大革命”簡史》中共党史出版社2006年   趙紫陽が内蒙古にいたのは10ケ月ほどにすぎない。1971年5月内蒙古自治区革命委員会副主任として赴任。10ケ月の内蒙古のあと、1972年3月北京を経て、広東省革命委員会副主任として広東に赴任している(なお1974年4月

四川での趙紫陽 1975-1980

 1975年に趙紫陽は広東から四川に入った。ここで5年の治世を経験し、1980年に党のトップに躍り出る。趙が四川にはいったとき、四川の人口は9000万を超えていた。重慶市(10.3万平方キロ)が直轄市として分離される(1997年)前、四川の面積約57万平方キロは日本の1.5倍である。省のなかでは最大の大きさである。趙紫陽は1980年2月に中共中央政治局常任委員となる。8人に常任委員のなかで最下位だが。3月に中央財政経済領導小組が設けられその組長に就任。4月には国務院副総理とな

趙紫陽と企業自主権回復の試み 1978-80

以下は、向嘉貴《四川擴大大企業自主權試點紀實》載《趙紫陽在四川(1975-1980)》新世紀出版社2011年,58-64を適宜まとめたものである。  1978年10月から80年まで。まだ趙紫陽が四川省委員会第一書記だったとき、四川において、企業に自主権を回復させる大規模な実験(試点)が行われた。最初、十一届三中全会前に6社。1979年に100社。1980年に417社。与えられる許可権は最初の6社の時14項目(條)。100社の時12項目、417社のときは20項目を制定。自主権

胡耀邦の失脚と趙紫陽

                            福光 寛  胡耀邦の失脚は1987年1月に生じた。これに趙紫陽がどうかかわっていたかについては議論がある。  1980年から続いた胡耀邦を総書記、趙紫陽を国務院総理とする体制は1987年に入って開かれた中央政治局が開催した民主生活会なる会合(1月10日から15日)で胡耀邦批判が噴出したことで終焉を迎えた(直接的には1986年末に全国各地で起きた学生運動の責任問題。胡耀邦が資産階級自由化に反対するという旗幟が不鮮明であった