コロナ禍を生きる「私」はいかにして『擬娩』の「観客」になりえたか                                   番場 寛

  ある作品が戯曲として書かれた状況とそれが演出され舞台で上演されるときの状況は異なっている。この『擬娩』が上演されている現在はどういう状況なだろうか。同じ京都で同じ和田ながらによって演出されており、しかもわずか2年しか経っていないのに、時間の経過にともなう状況の変化のもとに起こった作品の変化に目を向けてみたい。

  今回の舞台を見てまず驚いたことは俳優たちがマスクをしていないことだ。舞台の袖で椅子に座って機械を操作しているやんツーと女性はマスクをしていたが、2年前の初演のときは全員がマスクをしていなかった。今回の観客はすべてマスクをしていた。つまりこの新作の『擬娩』はコロナ禍という状況のさなか、KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNという祭典で上演されたのだ。

  Covid-19によるパンデミックは、人間とはどういう存在なのかを再考せしめた。舞台芸術においても、一年以上にわたって直接に観客の前で演じることは不可能な状況が続いた。オン・ラインで配信を試みた劇団もいたがやはり生身でみる舞台にはとうてい及ばなかった。

  パンデミックは、そのせいで演劇は、中止になったり、観客の人数が制限されたりすることから常に対立するものとみなされてきた。それだけに演劇の本質をペストのアナロジーで説明したA.アルトーの演劇論は異色である。かれによれば「演劇はペスト同様に死ぬか全快するかによって終わる危機」であり、演劇も崩壊によって最高の均衡を手に入れるという点でひとつの病気とみなすことができる。「演劇の作用は(・・・)集団にその暗い力を、隠れた能力を啓示し、宿命を前にして英雄的な最高の態度をとるように導く」と説く。(安藤信也訳「演劇とペスト」)荒れ狂うパンデミックをつかの間逃れたかのような時期にマスクなしで上演された『擬娩』にもこの類推は成り立つであろう。

  シアターE9での初演時のアフタートークで語られたことは、年齢的にはその経験があってもおかしくない出演者全員が出産の経験がないということであった。今回の公演で新たに加わった3人は明らかに出産は経験していないのが観客の目にも明らかだが、演劇においては、現実の時間において生活している俳優は劇中人物とは異なっており、歌舞伎や能においても男性が女性を演じるのがあたりまえになっていることも考えれば、演じている人間と登場人物の解離は不思議なことではない。今回公募によって若い3人を選んだことにはそうした実人生を生きる俳優と舞台上の登場人物の虚構性との差異を際立たせようとする異化効果を狙ったものかもしれない。

  この作品のテーマであるタイトルの「擬娩」とは、自分は妊娠していないにもかかわらず、妊娠し、分娩した人と同一化し、身体もそれに合わせるというまさに、一般的な演劇の演技の役割と似たことを演じていることになる。 勿論「擬娩」と一般的な演技とは共通点もあるが、大きな差異もある。共通点は妊娠し分娩したひとを模倣し、演じる点だが、違いは「擬娩」においては、妊娠している身体の状態を自分で演じている人物に同一化している点である。

  美術家としてやんツーが参加した今回の『擬娩』の初演時のそれとの何よりも大きな違いは、光が点滅する大きなロボットと自走し無線で操作され、俳優の音声を自らの言葉として発するセグウェイ、掃除ロボット、そして最初何だか分からなかったが、終演後にそれは3次元プリンターだったと説明された計4台のロボットが人間の登場人物と同じ資格で舞台上を動き回った点である。

  さらに今回の新作では台詞にも「携帯」「iPad」が加わり、SNSとGoogleの検索画面が舞台に設置されたスクリーンに表示された。4人の俳優が、朝起きてから、冷蔵庫、をはじめ様々な器具を用い洗面、朝食をとるルーチンをこなしていくのと、舞台上をロボットたちが同じ資格で動き回る。俳優たちの台詞は、妊娠して胎児に話しかけるシーン以前には、挨拶の言葉以外は名詞の羅列でしかも4人の間には交流はない。ここまでは、常にSNSや検索機能を使用しているのかそれに動かされているのかわからなくなった人間が、道具やロボットのように決まった行動を繰り返す現代社会における人間疎外の側面を的確に再現しているように思われた。

  スマートフォンの画面を模したスクリーンに映し出される文字や映像は舞台上で、単語と挨拶の言葉だけを発し動き回る人間たちとロボットたちを動かしている情報とそれを包み込んでいる社会の説明となっていた。

演技論としての「擬娩」
  昔は、夫が妊娠、出産する妻に心理的に同一化する過程で身体までも同一化しようとして、つわりを身体的に再現する習俗としてあったと和田自身が説明する。これはつまり、擬娩自身が一種の演技であるとしたなら、この『擬娩』という舞台作品における俳優の演技とは、妊娠している妻を模倣して演技している夫を模倣して演技することになる。

  ポスト・パフォーマンス・トークで明かされた今回の俳優の事前の発言では、みなことごとく「妊娠も出産も自分の身体で経験するということはいくら想像力を働かせても想像できない」と言う。舞台上の4人は「私はかつて生まれました。生まれましたが」という共通の台詞から始めてそれぞれが「生んだことはありません」「生むかどうかわかりません」「自分が生むことができるかどうかわかりません」「生もうとためしてはいません」と生むことへの不確実性を告白する。実際に妻の出産に立ち会ったやんツー自身も自分の身に起こることとしては想像できないと言った。

  ここで考えてみたいのは「演技」とは普通一般に考えられがちなように、演技によって表現したいと思う人物の心理を想像して、自らもその心理に同一化すべきものだろうかということだ。それをこの作品で考えなくてはならないのは、やんツー自身がポスト・パフォーマンス・トークで、セグウェイのロボットに主体としての意味を持たせたかったと語ったからだ。
 
  これについては、ロボット演劇の先駆者のひとりである平田オリザの言葉を考えたい。かれは2018年に同志社女子大学で『さようなら』というアンドロイド演劇を上演したときのアフタートークで「俳優には心は必要ない。それらしく見えればいい。ロボット演劇はそれを証明してしまった」と語った。では、なぜロボット、特にアンドロイドが観客にはアンドロイドだとわかっていても俳優と同じように登場人物として受け入れられたのだろう。

  そんな疑問を抱いたまま上演会場を出て一階に下りたとき、「ホー・ツーニェン ヴォイス・オブ・ヴォイド―虚無の声」のプロジェクションの一つを南ギャラリーで見た。その部屋のスクリーンの一つ面で見たのは三木清の「京都学派」での役割と生涯であった。
  どこかに『擬娩』を見たとき抱いたもやもやが残っていたせいだろうか、最後に三木が西田幾多郎の哲学をもとに自らの考えをまとめたところに強く惹かれた。三木はこう書いているという。「私にとって身体は対象ではなく、私によって身体は「所有」されている。身体は常に「私の」身体という形式に入っており、パトス的なものである」という趣旨を述べていると伝えていた。

  これはまさに「妊娠」を経て「出産」するときの身体にもあてはまるであろう。ではセグウェイたちロボットの動きも身体という「形式」として捉えられるとしたらそれは「演技」と呼べるだろうか?

  見ていてよくわからず、ポストトークで初めてわかったロボットがあったが、それは3Dプリンターであり、舞台では一個のリンゴを制作し終えたことが、やんツー自身から言及された。彼の狙いはもし機械において出産に相当するものは何かと考えたときこのプリンターが浮かんだし、リンゴというものには性的な意味も担っているということだった。
  だが3Dプリンターには自らに「所有」されているという身体の意識はないであろう。ではそうした舞台上のロボットを登場人物と見なすことができるとしたらそれはどういう作用によるものだろう。それは「観客」によって可能となるものだ。

「観客」の誕生
「演劇」を「演劇」として成立させているものは、脚本家、演出家、俳優、舞台美術家、等であるが、その中でも、最も重要な者は「観客」だと思う。「観客」とは目の前で「今」「ここ」で起きていることを別の時間と空間で起きているものとみなすことのできる人であり、そこで行動している「俳優」を現実の生身の肉体を持って生活している現実の時間で生きている人間としてではなく、別の空間と時間で生きているものと見なすことのできる存在である。

「演劇とは何か」という問いに対して私は「演劇とは『観客』という存在を生み出す装置である」と定義したい。目の前の舞台上を動き回るロボットを登場人物・俳優とみなすことができる「観客」を生み出すことに成功したかどうかがこの作品の評価のポイントとなるだろう。

  今回の舞台においてもその「観客」を生み出すのに成功した演出と演技があったと思ったのは、ひとりの女性が舞台上ですれ違いざまにセグウェイにぶつかりそうになったときに小さく謝ったような声を上げた場面だ。それを見ていた者はその場面でセグウェイを登場人物とみなす視点をその女性と共有したのであり、そう見る「観客」を生み出した瞬間だった。

  新作では、妊娠している者と生まれてこようとしている赤ん坊がマイクを持って言葉を交わす設定になって、それを補足するためか最初6ヶ月の胎児が表示されていた中央のスクリーンには母体のエコー画面が表示され赤ん坊の顔が識別できるようになっている。初演では、母体の存在する世界と、生まれようとしている赤ん坊のいる仮想の世界とを隔てるのが、中が半透明の膜を張られた枠だけであったことが非常に効果的だったのだが、両者が舞台上の同じ空間にいる今回の設定は両者の対話の効果が多少弱まっていたかも知れない。

クライマックスとしての胎児との対話
  この作品で前作も今回の作品でもクライマックスは胎児と、妊娠している主体との対話の場面であろう。スクリーンにはエコーの画面にはすでに顔が識別できるほどに成長した胎児が映し出されており、二人の俳優がマイクを持って胎児と母体の持ち主との対話が行われる。

  その段階になるとそれまでつわりや体に直接かかる張りや痛みなど生理的、感覚的だった妊娠が出産を控えた段階になってとたんに、胎児の立場からの「生まれても大丈夫か」という問いかけとなり、何度か繰り返される不安の発露に対し「大丈夫」と繰り返すが、胎児は母親が自分を育てていけるかという経済的な不安を述べて問い詰める。

  胎児が成長し、出産が切迫する様を二つの大きなボールが膨らんでいく様で語られる若い女性の俳優のモノローグに驚いた。それまでおどおどした高校生に見えていたのに、今にも破裂しそうなほど膨らんでいく赤いボールの横で語りの強度を増していき、「このなかに一億人の赤ちゃんがいて、生まれたら国民に一人ずつ配りたいが、もしたった一人の大きな赤ちゃんがいるのだったらどうしよう」と叫ぶ。

  ここからは舞台装置と台詞から思わず連想してしまったことなのだが、あの赤いボールの背景に白い四角の布を置けば日の丸だなと思った。労働力を確保し、年金制度を維持し続けるために政府からも出産奨励がなされている背景も暗示されているように思えた。これは「出産」は身体的な個人の意識を離れ、集団的、社会的、ひいては国家的な広がりの下での個人的な選択だということを示している。

  この二者がマイクを持って相手に「もしもし?」と呼びかけるのはKYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNのテーマでもあり、それも意識していたことを和田自身も語った。この「もしもし?」とは、祭典のパンフレットの冒頭で「芸術表現と社会を、新しい形の対話でつなぐことを目指して」いると宣言されている。

  英語ならHelloと訳されるこの「もしもし?」を、仮定の接続詞のif「もし」と捉えたらどうなるのであろう。この劇の最後は、中断することなく自律的に再生産するという意味をこめたセグウェイにより、もはや父母や子という存在がなくなった未来を暗示して終わっている。演劇だからこそ表すことができる可能世界へと導く「観客」へのifともみなすことが許されるのではないだろうか。


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