『白雪姫と七人の継母』第二十七話「雪見の復讐」

 邪が出るか蛇が出るか。文化祭を三日後に控えた日の放課後、雪見は彩子と共に展示教室へと向かった。
 スプリンクラーが誤作動した教室は今も立ち入り禁止になっている。移動先は一つ上の階。隅に位置し、日があまり当たらない、絵画を展示するにはうってつけの教室だった。
 鍵を開けて展示教室に入る。左手側には腰の高さほどのロッカーが並んでいる。その内の一つを開けて、雪見は中を覗き込んだ。
 祈るような気持ちだった。どうか何も起きていませんようにと、仕掛けた後もずっと思っていた。
「伊藤さん?」
 彩子の気遣う声が耳を通り過ぎた。雪見は口を右手で覆った。震える唇から吐息を漏らす。泣きそうだった。
 ともすれば絵に伸ばしそうになる手を押し留める。危険だ。まだ液が付着しているかもしれない。
 雪見は鞄からゴム手袋を取り出してはめた。ロッカーから慎重にキャンバスを引っ張り出す。描かれていたのはリンゴの絵ーーのはずだった。その面影はもうない。剥離剤によって溶けただれた絵具が不気味な様相を呈している。
 キャンバスの惨状に彩子が息を呑んだ。
「この場所は、吉森さんに伝えたんだよね?」
 雪見はキャンバスを机の上に置いた。複製画とはいえ自分の作品が壊されて良い気はしない。犯人が親しい人ならばなおさらだ。
(どうして)
 同じ絵描きならば、一つの作品にどれだけ心血を注いでいるかわかるはずだ。何故踏み躙るような真似ができるのだろう。雪見には理解できなかった。
(そんなに私のことが憎いのですか)
 祈っていたのに。願っていたのに。信じていたかったのに。真実なんて知りたくはなかった。ただの事故で、悲劇のヒロインよろしく泣いていたかった。
「伊藤さん、辛いだろうけど……立川先生に言った方がいんじゃないかな」
 雪見は深く息をついた。心の底から吐いたため息だった。
「先生には言いません」
 振り向くと彩子は軽く目を見張っていた。
「黙っているの?」
「はい。このことは誰にも、母にも言うつもりはありません。だから安心してください」
「え?」
「文化祭が終わったら創作文芸部も辞めます。だから先輩も黙っていてください」
「いや、何も伊藤さんが辞めなくても」
 雪見は頭を振った。部活を続けている限り、自分の絵を台無しにした人と顔を合わせなければいけない。素知らぬ顔で過ごすことはできない。咎めないだけで、決して見逃すわけではないのだから。
「だって先輩ですよね、私の絵に剥離剤を塗ったのは」


 伊藤雪見は、自分が凡庸な人間だと認識している。
 取り立てて美しくも醜くもない平凡な容姿。平均より低い身長。運動は苦手で、唯一得意なのは長距離走。物覚えも悪く、いつも叔父に怒られていた。
 そんな雪見がある日突然、成政の嫡子として認知され、白羽家に引き取られた。まるでシンデレラのように雪見を取り巻く環境は一変した。勉強に不安な箇所があれば塾に通わせてもらった。風邪をひいたら病院に連れて行ってもらえた。テストでいい点を取ったらご褒美にケーキを買ってもらえた。
 だから、雪見にとって人並みになるための勉強は至極当然のことであり、努力とも呼べないものだった。他人の倍勉強してようやく追いつける。学年で五位以内に入るためにはもっともっと勉強しなければならない。それを辛いと思ったことは一度もなかった。勉強すれば成績は伸びる。絵を上手く描ければ継母が喜んでくれる。単純な雪見はそれで満足していた。
 ーーだから、自分の努力が誰かを傷つけるなんて、雪見は夢にも思っていなかった。


「吉森さんには『部室のロッカー』と伝えました」
 しかしここは部室ではなく展示教室。
「は? え、で……でも、」
「ごめんなさい。先輩に嘘を吐きました。展示教室と部室の二つに偽物を置いたんです」
 そもそも、有紗が犯人である可能性は低かった。まず彼女は雪見の継母がどういう人物であるかを知っている。娘のためならば学校に圧力を掛けたり、盗聴器と発信器を仕掛けて尾行したり、マンションの改装を平気でするような過激で過干渉な母だと知っている。
 そして彼女は雪見と利害関係にない。継母の怒りを買うリスクを負ってまで雪見の絵を手に掛ける理由がなかった。
「部室の絵は無事でした。ここに来る前に確認済みです」
 対して展示教室に置いた絵はこの通り酷い有様だ。先日と同様に何者かが剥離剤を塗ったのは明白。
 何もしなければよかったのに。
 仕掛けておきながら、罠にかかった彩子を雪見は恨めしく思った。この複製画に何もされなければーー被害があの一枚で終わったのなら、事故として目を瞑ることだってできた。それ以上害にならないと確認できたのなら。
「何故吉森さんを陥れようとなさったのですか?」
 彩子はさらに複製画にまで手を掛けた。雪見に対してなおも敵意を持っていると示したのだ。捨ててはおけなかった。
「ち、ちがっ」彩子の顔が蒼白になった「これは、誰かが私をはめようとして」
 自分で放った言葉に彩子は勢いづいた。
「そう、そうよ。きっとあの百合とかいう女が誰かにやらせたのよ! 私を陥れようと……」
「テレピン」
「え?」
「剥離剤は刺激に強い薬品です。ですから扱う際は必ず手袋をしなくてはなりません」
 雪見はゴム手袋を外した。
 油彩画の基礎だ。彩子も知っているはず。何故なら彼女もまた専門的に絵を学んだ経験があるからだ。
「私の絵を素手で先輩は持っていましたね。大量の剥離剤が塗布されたキャンバスを」
「あれは額の中に入れてあったから」
「おっしゃる通りです。隙間がある以上水が入るのは致し方ないとしても、額の上から剥離剤をかけても大して効果はありません。ですから、先輩は一度あのキャンバスを額から取り出したはずです。留め具がありますので手袋をしたまま額から取り出すのは骨が折れるでしょう」
 つまり素手でキャンバスに触っている。
「指紋、ちゃんと拭きましたか? スプリンクラーの水がかかってもそう簡単には消えませんよ」
 彩子は両の手を握り合わせた。無意識の動作だろうが、それが決定打。
「モデルの秋本さんとは先日が初対面ですから違いますよね。私に対して何か思うことがあって、こんなことをなさったのですか」
 彩子は虚を突かれたように目をしばたいた。
「やっぱり気づいてなかったんだ」
「私が把握しているのは、先輩が中学生まで絵画コンクールで何度も入賞されていたことだけです」
 美術部の部長である蘭子と交流があるのも、本格的に絵を学び、コンクールで競い合う仲だったからだ。しかし彩子は高校進学以降ぱったりと入賞しなくなった。出品しなくなったと言った方が正しい。栄光女子学院の普通科に進学し、描画は創作文芸部で嗜む程度になった。
「お金はある。実績もある。実力も磨いてきた。でも私は夢を捨てなきゃいけなかった」
「どうして、ですか?」
「これでもそこそこの企業家なわけですよ、ウチの父は」
 冗談めかして彩子は言う。彼女の父親は起業し一代で財を成した。彩子はその恩恵に預かり、幼い頃から家庭教師や楽器演奏、ゴルフや水泳などあらゆる英才教育を施された。中でも彩子は絵を描くことに適性があり、本人の努力もあって数々のコンクールで入賞するほどの実力を身につけたーーのだが。
「『趣味としては許すが、絵で食べていけるとは思うな』ですって。通わせるだけの金はあるくせに私の夢には一円も投資してくれなかった」
 彩子は吐き捨てた。
「父は自分の会社を継ぐ子が欲しかっただけ。養われている手前、私も逆らうわけにもいかないしね。大人しく普通科に入ってオママゴトみたいな部活でひっそり絵を描いていたわ」
 しかし今年の春に伊藤雪見が入学した。後輩として創作文芸部に入部した。自分と同じ油彩画を得意として、何の制約もなく、誰に咎められることもなく、それどころか描いた絵を当然のように一番いい場所で掲示される。
「正直に言うと、ずっとあんたが目障りだったわ」
 悪意に唇を歪ませて彩子は嗤った。
「同級生にイジられても馬鹿にされても怒らない。蒸留水みたいな顔で良い子ぶってるところが。当然よね? 生粋のオジョウサマにしてみれば、下々の人間なんて相手にするだけ時間の無駄だもの」
 つまりは腹いせ。企業家の娘で普通科所属で絵を描くことが好き。似ている境遇であるにもかかわらず、自分は親の理解を得られず夢をあきらめ、雪見はのびのびと絵を描いている。
「百合さんから絵を盗むように頼まれた時はホントに……心底、馬鹿馬鹿しくなったわ。たかが素人の高校生が描いた絵じゃない。それを大の大人が目の色変えて奪おうとするなんてホント、馬鹿みたい!」
 それが彩子の言い分。雪見はドロドロにされた絵を見下ろした。
「そうですか」
 彩子は気づいていない。『たかが』となじる絵は、他人とはいえ同じ高校生が描いたもの。彩子は自分の夢を自分で貶めたのだ。
「どうする? お母様に報告する?」
「最初に言った通り、誰にも言うつもりはありません」
「へーお優しいことで。ありがと」
「誤解されているようですが、私は先輩を赦すつもりはありませんし、絵に関しても趣味で終わらせはしません。きっちり復讐はさせていただきます」
 小馬鹿にしたような彩子の笑みが消える。
「私は画家になります。白羽家の立派な後継者にもなります。先輩があきらめたものを、どちらも成し遂げてみせます」
 前例はある。写実画家として名を残すディエゴ=ベラスケスは宮廷配室長という激務をこなしながらも『ラス=メニーナス』などの見事な作品を描いた。画家に限らず生まれや環境が芸術家の将来を左右するのは事実だが、最後に決めるのは自分自身だ。
「私自身が先輩が壊した作品の価値を高めましょう。あの肖像画は素人が描いた絵ではなく、偉大な画家が若い日に描いて何者かに台無しにされた悲劇の絵になるのです」
 雪見は宣言した。決意と、そして決別の意味を込めて。
「それが私の復讐です」
 呆気に取れられる彩子に「あともう一つ」と雪見は付け足した。
「私のことをどう思おうが言おうが構いませんが、母を侮辱するのはやめてください。娘として大変不愉快です」


 同日、椿によって成政の愛人全員が本邸に呼び出された。
 通された客間で大きなテーブルを囲む。成政の妻と愛人が顔を合わせるのはお盆休み以来だった。今回の油彩画破壊事件の犯人と、白羽家としては警察や学校に被害を訴えることもいかなる報復措置も行わないことを、上座についている椿の口から告げられた。
 被害者の雪見が公表を望まない以上、部外者が騒ぎを大きくするのは筋違い、というのが椿の弁だ。しかし実のところは継母の一人、百合の暴走が端を発した事件なので内々にことを収めたいだけ。白羽家の正妻としては冷静かつ的確な判断だった。
「いいえ、処罰すべきです」
 断固として抗議したのは真弓だった。
「雪見はこの三ヶ月、あの絵を描くことに心血を注いでおりました。それを逆恨みで修復不能なまで破壊するなど……仮に雪見が白羽家の者でなくとも許しがたい凶行です」
「しかし事を荒立てるのを雪見は望みません」
「ではせめてその女の作品を切り裂いて人前に出せないようにすべきです。それが道理でしょう!」
 同じ芸術家なだけあって、真弓の怒りはいつになく激しい。普段ならば絶対に逆らわない正妻の椿に対しても声を荒げる。
「恐れながら、私も真弓と同じ意見です」
 椎奈が追従する。冷静そうに見えても彼女もまた雪見に同情的だ。
 無理もない。雪見はあの油彩画を完成した翌日、丸一日寝込んだ。絵の追い込みを掛けていて三日間ほとんど寝ていなかったらしい。その反動でスイッチが切れたかのように倒れたのだ。雪見が寝ている間は無論、元通り元気になるまで甲斐甲斐しく世話をしたのは椎奈だった。
 それだけではない。雪見はモデル代を捻出するためにお小遣いを切り詰め、短日とはいえアルバイトをし、絵にかまけて成績を落とさないよう勉強もしていた。夏休みに旅行どころか遊園地や夏祭り、映画にすら行かなかった。
 雪見が払った代償も努力も知らずに、あの女子生徒は安易な気持ちで踏みにじったのだ。白羽家の人間ではなく、継母として、到底赦せるものではない。
「目には目をとまでは申しません。しかし白羽家の者と知りつつ手を出したのならば、相応の報いを受けさせなければ、周囲に示しがつきません。今後同じようなことがないよう、厳然とした態度で臨むべきかと」
「そうでしょうか。むしろわたくしは、今回の一件で雪見のしたたかさを垣間見ました。彼女に手を出そうという輩も減ると考えております」
「奥様、それはどういう意味でしょうか」
 桜が愛人一同を代表するような形で椿に訊ねた。
「今までは雪見が幼いこともあり、白羽家の名折れにならないようわたくし達が彼女を守っておりました。しかし今回、雪見は一人で犯人を特定し彼女なりに責任を追及し罰を与え、脅しもかけました。あの程度の小物ならば、二度と雪見に害を成そうとは思わないでしょう」
 柚子が腕を組んで天井を仰いだ。
「まあ、たしかに……雪見はしっかりしてきたな。ちゃんと自分の意見も持っているようだし」
「いつまでもわたくし達が彼女を守っているわけには参りません。降りかかる火の粉は自分で払い除けなければ」
 椿は微笑んだ。穏やかで全てを受け入れたような優しい笑みーーそれを恐ろしいと思ってしまうのは、きっと笑顔の裏に隠された凄みを知っているからだ。火の粉どころか大火災だろうと猛然と立ち向かうだけの冷徹さと覚悟がなければ白羽家の正妻は務まらない。
「ですが、椎奈さんのおっしゃることにも一理あります。けじめはつけなければ、他の者に示しがつきません」
 椿は目を眇めた。テーブルの隅に座る百合に視線を投げかける。
「百合さん、あなた随分とせせこましいことをしてくださったものね。教師を使って雪見を陥れようとしたり、次は生徒の憎しみを煽ったり」
「雪見さんのためですわ」
 百合は悪びれもせずに答えた。すかさず真弓が咎める。
「嘘おっしゃい。あんたの浅はかさが招いたことでしょう!」
「ですが、今回の件で雪見さんも一つ成長なさったのではなくて? 感謝されることはあっても批難される覚えはございませんわ」
「よくもいけしゃあしゃあと……っ!」
「おやめなさい」
 静かだが有無を言わせない声だった。椿にたしなめられ、真弓は渋々引き下がる。
「つまり百合さん、あなたは自分には全く非はないとお考えでいらっしゃるのね? 雪見が人前で侮辱された際に、わたくしがあれほど余計なことはしないようにと忠告したにもかかわらず」
 たとえ自分に非がなくとも、正妻である椿に『忠告』されたのなら謝罪し、改める素振りだけでもしなければならない。椿の忠告は事実上の警告だからだ。しかし反省という概念のない百合には、そんな簡単な道理ですらわからなかった。
「ええ、わたくしに非はありませんわ」
「わかりました」
 胸を張って答えた百合に、椿の目が据わった。
「百合さん、あなたには今後一切、栄光女子学院関係者との接触を禁じます。無論、雪見も在校生ですので卒業するまで接見禁止です」
「そんな……っ!」
「この件は旦那様にもご報告いたします。菫さんは百合さんの関係者が雪見に近づいたら遠慮なく排除してください」
「承知」
 菫が背中に差した木刀に手をかけた。いつでも抜けるという意思表示だ。
「椿様、それはあまりにも横暴ですわ! わたくしは何も悪いことはしていないのに……」
 まだ言うか。他の継母達が冷たい視線を浴びせる。食い下がる百合に、椿の堪忍袋の緒が緩む寸前、桜が手を挙げた。
「では民主的に多数決をいたしましょう。椿様のご決定に異議のある方は挙手を」
 当然といえば至極当然で改めて言うことでもないのだが、百合以外誰一人として手を挙げる者はいなかった。

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