見出し画像

『全知無能の神に代わって』第八話「深淵より」

 どうしてこんなことになったのか。
 いくら考えてもセシルにはわからなかった。つい数刻前までは、輝かしい未来にセシルは胸を躍らせていた。創世の女神ミアの代理人、ミア教の頂点に立つ聖女。由緒ある名門貴族クライン侯爵家の令嬢である自分にこそ相応しい役だ。
 一国の王でさえも聖女の発言は無視できない。他の貴族達もこぞって新たな聖女の祝福を求めるだろう。神殿への寄進、聖女個人への贈呈。誰もが自分にかしずき、一欠片でも好意を得ようと奔走する――はずだった。
 それが、今ではどうだ。
 薄暗い半地下の懲罰室にセシルは幽閉されている。粗末なテーブルにイスが一対。埃まみれの寝台は硬く、薄い布団が掛けられているだけ。風呂は小さく、窓も小さい上に格子が掛けられている。下働きの宿舎よりも無機質で侘しい部屋だった。扉には外から鍵が掛けられていて、こちら側からは出ることは叶わない。
 つまるところ、懲罰室は牢獄となんら変わりなかった。
「こんなはずは……」
 おかしい。どう考えても。
 誰かが仕組んだとしか考えられなかった。本物の聖女である自分を陥れ、ミア教に仇なすつもりだ。マレ教徒だとすれば、裏切者は誰だろう。
 一体誰なら、燔祭の供物に紅い紅涙石を仕込めただろう?
 控えめに扉の叩く音がして、セシルは顔を上げた。
 こちらの意思に関係なく扉は開閉されるというのに、わざわざノックするのは嫌味か。苛立たしさを押し殺して、セシルは努めて冷静に言った。
「どうぞ」
 ややあって錠の開く音がして、扉は開かれた。現聖女のリリエルが神官兵を連れて入室する。
「お呼びですか?」
「人払いをして」
 誰にも聞かれたくない話だ。リリエルは承諾し「すみませんが、しばらく席を外してください」と控えていた神官兵達に言う。
 扉が閉まり、気配が去ったのを確認してからセシルは身を乗り出した。
「異端審問の様子は?」
「聞かない方がいいと思うわ」
 赤い紅涙石という確たる証拠があるため、いくらマレ教徒とは無関係と主張しても信憑性に欠けていた。そして邪教徒は火炙りと定められている。
 セシルは震えた。無実の自分が、女神ミアの聖女である自分が、邪教徒として裁かれ、処刑される――絶対にあってはならないことだ。
「ルルニア、聞いて。これは陰謀よ。マレ教徒が聖女である私を陥れようとしているの」
 リリエルは不思議そうに首を傾げた。いとけない仕草だった。
「マレ教徒が?」
「嘘じゃないわ! 私はたしかに神の声を聞いたの。託宣だって告げられた。だからそれを証明さえできれば」
「おかしなことを言うのね。マレ教徒と結託して私を陥れたのは、あなたなのに」
 セシルはきょとんとした。聞き間違いかと本気で思った。リリエルは先ほどと変わらず不思議そうな顔をしている。
「……え?」
 惚けた声が、セシルの口から漏れる。
 首を傾げるリリエルは子猫のように可愛らしい。だが、どうしてだろう。リリエルを見ていると、セシルの身体は竦んだ。ゆっくりと、確実に、芯から寒気が来るような感覚がした。宝石のような美しい瞳の奥から、恐ろしい何かがやってくるような――そんな予感がした。
「お探し物はこれでしょう?」
 リリエルが差し出したのは青い紅涙石。昨夜、セシルが使用人に指示して祭壇に仕込んだものだ。
「どう、して……」
 口にしてから、セシルは思い至る。愚問だ。考えられる可能性なんて一つしかない。
「すり替えたの……!?」
「ええ、私の紅涙石と交換させていただきました」
「じゃあ、女神マレの聖女はあなただった……でも、そんなことが」
「神の御心は人の身でははかりかねるわ。仮にも女神ミアの信徒である私を聖女に選ぶなんて……おかげでマレ教徒達に殺されずに済んだけど」
「返して! 私の紅涙石!」
 掴みかかろうとしたセシルだったが、冷たい眼差しに身が竦んだ。
「盗人猛々しいとはこのことね。誰の紅涙石ですって? これは私の紅涙石でしょう。どうしてあなたが持っているの?」
「それは……っ」
「マレ教徒達から受け取ったのね。証拠にもなりかねないから処分したかったでしょうけど、捨てるわけにもいかなかったってところかしら? 万が一、燔祭であなたの祭壇に紅涙石が出現しなかったら、聖女として認められないから」
「で、でも私は神の声を聞いたわ、この耳でたしかに! 女神ミアの託宣を」
「神の声、ねえ」
 リリエルは鼻で笑った。
「ねえセシル、あなたはどうして神の声がわかるの? 神の声なんて聞いたこともないくせに」
「どういう、意味……?」
 返答の代わりにリリエルは右手の黒手袋を外した。女神の聖痕―—本物だと直感した。
「あなた、まさか本物のリリエルなの!?」
「ええ、お姉様方にどうしても『御礼』がしたくて、黄泉の淵から舞い戻って来ました」
「そんな、そんなはずはないわ! ミアの聖女を邪教徒が生かすなんて」
「そう、あやうく殺されるところだった。でも姉さんが、私のふりをして代わりに燔祭の生贄になったの。女神ミアの新しい聖女なんて最初から選ばれるはずがないのよ。だって私は生きているもの。死にぞこなって、まだ舞台の上で聖女を演じているわ。シュアルの花が咲いたのは、女神マレの聖女が誕生したからよ」
「じゃあ、あれは、私が聞いたあの声は、」
『よんだ?』
 ひょっこりと現れた少女に、セシルは短い悲鳴を上げた。
 黒髪黒目、身にまとうドレスもまた黒―—闇を体現したかのような少女は、明らかに人以外のものだった。少女はセシルの姿を認めると、無邪気に笑んだ。
『やあこんにちは。またあったね』
「ありがたく傾聴なさい。あなたの言う『神の声』よ」
『ぼくはリリィのでんごんをつたえただけだよ?』
「そいつを使って、私に嘘を吹き込んだの!?」
「嘘じゃないわ。私が授かった女神ミアからの託宣をあなた達にも教えてあげただけ」
 リリエルは悪びれもせずに――それどころか嘲るように言った。
「名乗りもせず『次の聖女はあなたです』とも言っていないのに、あなた達が勝手に自分が聖女に選ばれたと思い込んだのよ。仮にもミア教徒なら、聖痕が本物か偽物かどうかくらい見極めたらどう?」
「どうして」
 セシルの問いに答えはない。代わりにリリエルは清廉な慈愛の聖女にはそぐわない、酷薄な笑みを浮かべる。
「私がききたいわね。どうして私をマレ教徒に売り渡したの?」
 セシルは言葉を失った。禍々しさに背筋が震えるのに、リリエルから目が離せない。
「……よくもやってくれた」
 低い声が殺意と共に発せられる。怒気と憎悪を混ぜあわせた、おぞましい気配だった。
「人前で侮辱されても、暴力を振るわれても私は黙って受け入れていた。軽んじられるのは生まれのせいで、仕方のないことだと思っていたから。でも命まで奪われて黙っている義理はない。私一人だけならまだしも、ルルニアまで……っ!」
「ひ、ひぃ……っ!」
 それが限界だった。セシルの恐怖は飽和した。
 全身に悪寒が駆け巡る。絶叫はおろか声が出ない。喉が震えて、大声で助けを呼ぶことすらできない。目の前におぞましい化け物がいるのに、逃げなくてはならないとわかっているのに、足に力が入らない。
 リリエルは嘲笑った。冷酷に、そして愉しそうに。
「ねえ、教えて、私をいたぶるのは楽しかった? まんまと策にハマって私が燔祭の生贄になったと知って嬉しかった? 私の姉を殺して、さぞや気持ちよかったでしょうね!」
「いや、やめ、」
 セシルは後ずさった。貴族としての矜持も女神ミアへの信仰心も意味をなさない。黄泉の化け物の前に、セシルはただ無力だった。
「何を怯えているの? あなたは自分が選んだ毒杯を飲み干すだけよ。マレ教徒、それも聖女となれば、火刑は確実でしょうね」
「あ、あやまるわ! だから」
「あなたの謝罪は私の姉の命ほどの価値があるの?」リリエルは低い声で吐き捨てた「笑わせないで」
「そんな……お願い! 助けて!」
 セシルは叫んだ。この恐怖から逃れられるのなら何でもよかった。呪われた邪教だろうと穢れた賎民だろうと喜んで縋った。が、リリエルは視線を鋭くして、殺意を滾らせた。
「救いを求める相手を間違えているわよ。執行まで最低でも三日はあるのだから女神ミアに祈りを捧げれば?」
 セシルはその場に崩れ落ちた。かちかちと歯が鳴る。床を押す手が震える。危機感が拒絶を生むが、身体が動かない。
 目の前にいるのは、美しいがおぞましい化け物だ。美しいからこそ、なおいっそうおぞましいのだ。
 深淵を覗き込んだ気がした。果てない闇の奥深くからやってきた憎悪と怨嗟が、人の貌をして近づいてくる。
「女神マレの燔祭の三日間、私は祈ったわ。助けて。姉の命だけは奪わないでと、ひたすら祈った。いと高き天の神に、いと深き黄泉の神に、この世の全てに!」
 リリエルが膝をついてこちらを覗き込む。視線を逸らすことはできなかった。
「でも……姉は死んだわ」
 何の感情も読めない、無機質な声音。おそらく本人は自覚していないだろう。自身の右目から透明な滴が一筋、頬を伝っていることを。
「焼き尽くされて、残ったのは紅涙石一つ」
 端正な顔をいびつな笑みが彩る。込められているのは、嘲弄か悲嘆か憤怒か、殺意か――あるいは、その全てか。
 リリエルは嗤った。心の底から、嬉しそうに。
「絶望の味をとくとご賞味あれ」

イラスト:揺
キャラデザ:508

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?