『白雪姫と七人の継母』第三十話「雪見が描いた千歳の絵」

 千歳に頼み込んで不足分は今月末で支払うことでなんとか納得させた後、雪見は帰宅した。真弓に文化祭がつつがなく終わったことを告げて、自室に引っ込む。
 ひどく疲れた。制服を着替えるのも億劫でそのままベッドに突っ伏した。何もしていないのに身体がだるくて、そのくせ眠れそうな気もしなかった。
 視界の端に、立て掛けたキャンバスが入り込む。雪見は深いため息を吐いた。
 終わったことだ。
 誰にでも好かれることは土台無理な話。彩子の言い分にも一理ある。今まで自分は恵まれ過ぎただけ。少しくらい白羽家の娘であることで理不尽な目に遭ったところで、どうということでもない。
 だからさっさと処分すべきだとは思っている。あの絵がある限り、自分は何度も台無しにされたことを思い出し、彩子を憎んでしまう。捨てて、忘れるべきだ。でなければずっと進めないままだ。
 わかっている。誰に言われなくてもわかっている。でも、でもーー
 雪見は嗚咽を飲み込んだ。枕に顔を押し付けて、涙を堪えた。解決しないとわかっているのに泣きたくなるのはどうしてだろう。
「雪見、お客様よ」
 ノックと共に真弓の声。枕から顔を上げて「いないって言ってください」とだけ返した。酷い声だった。雪見はベッドから身を起こし、放りっぱなしだった鞄に手を伸ばした。
「居留守とはいい度胸だなテメー」
 低い声が降りかかった。ぎこちない動作で雪見は顔を上げ、悲鳴をあげそうになった。
 腕組みして仁王立ち。雪見を見下ろす千歳は明かに不機嫌だった。こんな形相の男性をよくもまあ娘の部屋に通したものだ。
 雪見は震え上がった。
「お、お金は……もう、なくて」
「あ?」
「で、でも来週まで待っていただければお小遣いが」
 千歳は煩わしげに頭をかいた。
「おめーの中で俺はどんだけがめついんだよ」
 身体を強張らせた雪見を他所に、千歳は部屋を見回した。かと思ったら机に立てかけてあったキャンバスに手を伸ばした。
「……あ、」
 制止する間もなく千歳はカバーを外して、キャンバスを取り出した。描かれている落書きよりも酷い出来の絵に鼻を鳴らす。
「やっぱあんじゃねェか」
「いえ、それは……その、違うんです」
「捨てるわけねーと思ったんだよな。あんだけ、一生懸命やってたもんな」
 千歳はいそいそとカバーをはめ直し、帯ゴムで固定した。スマホで時間を確認し「まだ店やってるな」と呟いた。
「みせ?」
「バイト先。従業員割引効くから」
 わけがわからなかった。千歳のバイト先の文房具店で一体何をお安く買うつもりなのか。
「万年筆……?」
「は? ンなわけねーだろ。額だよ、額縁。抜身のまま飾れねェだろうが」
 失敗作を抱えて出て行こうとする千歳を、雪見は慌てて引き止めた。正確には、引き止めようとした。しかし千歳は一度決めたらテコでも動かない性格だ。雪見がいくら頼んでも全く聞き入れようとしなかった。
「カバーは明日、返すわ」
 いやカバーより中身だ。それは失敗作だ。とても人前に出せるようなものではない。
「あのカバーではなくて」
「これ代金」
 千歳は先ほど受け取ったばかりの茶封筒を、雪見の手に握らせた。モデル代、彼のバイト代だ。雪見は血の気がひいていくのを感じた。
「受け取れません」
「なんで」
「だって、これは約束していたお金です」
「そう、俺の金だな。おめーから貰った金でヴァイオリンの弦を買おうが絵を買おうが俺の自由じゃねーの?」
 無茶苦茶だ。雪見は千歳に茶封筒を押し付けた。
「お気持ちだけで十分ですから。お金なんていりません。飾る価値もありません。どうせ明日捨てるつもりだったんです。ちょうど粗大ゴミの日で、」
「ゴミじゃねェ、てめーが描いた俺の絵だ!」
 咆哮にも似た一喝に雪見は竦み上がった。千歳は凄まじい形相で雪見を睨みつける。こんなに怒った千歳は初めてだった。
「次ゴミ呼ばわりしたらはっ倒す」
 押し殺した声音で告げられる。怖いなんてものじゃない。本当にやりかねなかった。
 会話の終了を示すように千歳は絵を抱え直した。
「足りねェ分はバイト延長で相殺な」
 一方的に次のモデルの約束まで取り付けて、千歳はさっさと出て行った。雪見の絵を抱えたままで。
 嵐が去った後の様相を呈した部屋で、雪見はただ呆然とする他なかった。

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