『白雪姫と七人の継母』第二十四話「なれの果て」

 管弦楽部への御礼参りを終えてすぐ、新学期が始まった。部長の彩子に絵が完成したことを伝えると、彼女は笑顔で「さすが伊藤さん」と褒めてくれた。すぐにでも持ってきてほしいと言われたが、そこそこ大きい絵なので保管場所に困ることから、直前まで自宅に置いておいた。無論、継母に見られないよう箱に入れて、だ。
 あっという間に文化祭一週間前を迎えた日、雪見は意気揚々と完成した絵を学校に持っていった。
 展示教室に運んだところで、有紗と彩子にだけ絵を見せた。二人とも目を丸くして、惚けたように口を開けた。千歳と似たような反応だった。
「すごいすごいとは思ってたけど……あんたって本当にすごいわ」
「ほんと、レベルが全然違う」
 レベルというのはよくわからないが、自分史上で一番の傑作であることは間違いない。
 約束通り一番目立つ位置に飾ってもらった絵は額の上から布を掛けた。しっかり教室も施錠して帰宅。無事に絵を納品したことを夕食の席で報告すると、真弓達は一様に喜んでくれた。
「文化祭、楽シミ」
「ガラスケースは明日届くぞ」
 柚子の声は特に弾んでいた。
「今回のはすごいぞ。火災や水害は無論、防弾処理も施した特殊加工のガラスだ」
「普通の額で十分だと思いますが……」
 まずもって銃撃されるほどの価値がない。ただの素人の油絵である。
「何を言うんだ。雪見の絵だぞ。警備には万全を期さなければ」
 雪見の絵は必ずと言っていいほど盗難の憂き目に遭う。犯人は継母七人の内の誰か。さすがに展示期間中に盗みはしないが、終わった瞬間に争奪戦と化す。柚子の懸念も理解できなくもない。
「部誌も発行するんですよ」
 製本する代わりに掲載画は全てモノクロなので、雪見はスケッチからいくつか気に入った絵を選んで提出した。夏休み中に通い詰めただけあって、ヴァイオリニストだけでなくチェリストやマリンバ奏者など貴重な演奏姿を描くことができたのだ。
「百冊買おう」
「そんなに買わなくていいです」
「二百冊」
 菫までもが張り合って妙なことを言う。部誌を買い占めかねない継母達に一人三冊までだと伝えておこうと雪見は思った。
 夕食が終わって後片付けをしている最中、雪見のスマホが着信を告げた。継母か有紗かと思いきや画面には「部長」と表示されていた。
「はい、伊藤です」
『ごめん、今大丈夫?』
 彩子の焦った声に雪見は眉を潜めた。
「大丈夫ですけど、どうかなさいましたか?」
『大変なことが……あのスプリンクラーが故障して、私慌てて外したんだけど』
 要領を得ない。しかし雪見は胸に不安がふくらんでいくのを感じた。とても、嫌な予感がした。
『とにかく学校に来てくれない? 伊藤さんの絵が、大変なことになっているの』


 菫と柚子に付き添ってもらって雪見は学校に向かう。駆けつけた展示教室前に顧問教師の立川と部長の彩子がいた。彩子は雪見の姿を認めるなり駆け寄った。
「伊藤さん、ごめんね。急に」
「いえ、それより絵は」
 雪見の問いに彩子は目を伏せた。
「それが……スプリンクラーの真下にあったから」
 おずおずと差し出された絵に、雪見は言葉を失った。
 F型十五号のキャンバスに垂れる模様。黒と橙色や緑といったものが混ぜ合わせられた『ムンクの悲鳴』以上に不気味で気味の悪い色合い。元の絵の面影はどこにもなかった。
「……え?」
 間の抜けた声が漏れた。
 現実味がなかった。だってつい数時間前だ。ようやく仕上がった絵を運んで、教室に置いて、先輩と一緒に鍵を締めて出てーーほんの数時間前のことだ。なのに。
 彩子がキャンバスを裏返した。作品票がついていた。題名と制作年、そして名前が見覚えのある字で書かれていた。
「これが、本当に……?」
 二ヶ月以上かけて描きあげた肖像画の成れの果て。モデルの千歳にも、彼の同級生や後輩方にも協力してもらって、時間を割いてもらって、それでようやく完成した油彩画が、あっさりと失われた。到底信じ難かった。
「どうして」
「原因は不明です。ただ、火事でもないのにスプリンクラーが作動していたので、おそらく故障かと」
 既に警備にも通報し、学長にも報告していると立川が説明した。文化祭の打ち合わせを終えて彩子が帰ろうとしたところ、不審な音がしたので展示教室を覗いてみたらーーという次第だったらしい。
「ごめん。私もパニクってとにかく絵を出さなきゃと思って」
 立川と彩子の言葉は雪見の頭を素通りした。水に濡れたままの彩子を気遣う余裕すらなかった。
 しかし雪見以上に衝撃を受けた人物がすぐそばにいた。柚子だ。先ほどからドロドロに溶けた雪見の絵を見下ろしたまま、微動だにしない。表情は「無」そのもの。哀しみや悔しさといった感情はおろか、状況判断する能力さえ、何もかもが削ぎ落とされたようだった。
 が、不意に柚子が動き出した。緩慢な動作で菫の元に歩み寄り、静かな声音で訊ねる。
「ライターを、貸してくれないか」
「ん」
 喫煙家でもないのに何故かライターをすんなりを差し出す菫。受け取った柚子はゾンビを彷彿とさせる覚束ない足取りで、教室の中へーー雪見達から距離を取った。
 室内の散水は既に終わっていた。床一面が水浸し。柚子はぐるりと周囲を見回した。
「雪見、これもらうな」
 手にしていた小瓶には見覚えがある。リンシード。乾性油。別名あまに油。つまり、油だ。
「いいですけど、なに、を」
 問いかけた雪見の前で、柚子は小瓶の蓋を開けて、リンシードを頭から被った。そしておもむろにライターをーー
「何してるんですか!」
 雪見と菫は柚子にしがみつき、羽交い締めにした。
「はなせ、離してくれえっ!」
 腕の中でなおも暴れる柚子。二人がかりの拘束も振り払いそうな馬鹿力だった。
「やめてください、燃えちゃいますって!」
「落チ着ケ」
「燃えてしまえ! こんな無能な母親に存在する価値はない! いっそ燃やして灰にしてくれぇえええっ!」
 滂沱の涙を流しつつ吠える柚子の首筋に、情け容赦のない菫の手刀が落とされる。一撃で柚子は昏倒。手から転がり落ちたライターを雪見は部屋の隅に蹴り飛ばした。
「ナイスです、菫さん」
 菫は「ん」と短く返事して親指を立てた。

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