『白雪姫と七人の継母』第二十一話「継母の秘密」

 タイミング悪く、口論した翌週は盆休みで一週間部活はない。アルバイト先である文具店に行けば会えるかもしれないが、盆休みに働いているとは考えづらかった。残るは交換した連絡先ーー直接連絡することなのだが、なんと言えばいいのか、決めかねる。
 たしかに千歳の言うことは正しい。雪見の家庭は普通のそれとは全然違う。継母も実の父も褒められる保護者ではないかもしれない。しかし、他人である千歳に非難される謂れはなかった。
 そもそも、白羽家の養子になることは雪見が自分で望んだことだった。文句を言えるはずもない。
(私が言葉足らずだったのかもしれない)
 千歳は雪見がやむなく養子になったのだと思い込んでいる可能性がある。だとすれば悪いのはちゃんと説明しなかった雪見だ。誤解は解かなければ。
 とは思うものの、必要時以外は連絡するなと厳命されている以上、安易にメッセージを送ることははばかられた。千歳はただ厚意でモデルをやってくれているだけなのだ。友達でもない。他校の先輩だ。
 リビングのソファーに雪見は倒れ込んだ。行儀の悪さを咎める継母はいない。誰一人としていなかった。
 盆休み中の三日間、白羽家本家邸宅で親族の集まりが催される。成政も出席するので継母は全員出払っているのだ。
 雪見はその間、一人で留守番だ。掃除や洗濯をし、椎名が作り置きしてくれたお惣菜を温めたり、自分で簡単な料理を作ったりして三日間を過ごす。夜更かしすれば監視カメラで継母にバレるし、あいにく盆休みで田舎に帰省している子が大半で、遊べる友達もいなかった。
 絵を完成させなければとは思うものの、とても筆を持つ気にはならない。絵は描き手の心情を如実にあらわす。今の精神状態では意地の悪い人相の千歳を描いてしまいそうだった。
 結局、雪見の盆休みの三日間は勉強と単発の一日アルバイトで終わった。
 三日目、継母達が帰宅する日は朝からスーパーに行って材料を買い込んだ。午前中にハンバーグとマフィンを作った。昨日観た料理番組で美味しいハンバーグの作り方が紹介されていた。どうせなら継母に喜んでほしい。
 マフィンは粗熱を取ってラッピングする。ハンバーグのタネは冷蔵庫で寝かしておく。夕食前に焼けば立派なおかずになるだろう。真弓達が喜ぶ姿が目に浮かんで、雪見は上機嫌だった。
 スマホが着信を告げたのは、台所の後片付けが終わった頃だった。
『これから帰るからねー』
 いつも以上に明るい桜の声。久しぶりに成政と会えたのが相当嬉しかったのだろう。継母にとっての一番はいつだって成政だ。
『六時には着くと思うから、一緒に夕飯は食べような』
 柚子の提案に雪見は「そうしましょう」と一二もなく賛成した。
「あのね、私、」
『そうそう、ミートローフを持って帰るわ。楽しみにしてね』
『都内の一流ホテルのシェフが作ったんですって』
『焼き菓子もあるわよ』
 椎奈と真弓が口々に言う。雪見は冷蔵庫を振り向いた。ミートローフとハンバーグ。形状が違うだけであとはほとんど同じだ。さらには焼き菓子。ブッキングにも程がある。
『雪見?』
 怪訝そうな菫の声。
『何カアッタノカ』
「いえ、何も。楽しみにしています」
 雪見は努めて明るい口調で言った。
 通話が終了した途端、ため息が口をついて出る。なんという間の悪さ。冷凍保存という方法もあるがどうしたって味は落ちるし、椎奈はすぐ見つけてしまうだろう。
 仕方なく雪見は昼食にハンバーグを焼いた。サラダも付けて、ついでにマフィンもデザートにした。
 ハンバーグをかじると肉汁が口の中に広がった。
「あ、美味しい」
 我ながらかなりいい出来だった。さすがは料理番組で紹介されるだけはある。しかし同意してくれる人は誰もいなかった。雪見は一人だった。
 雪見は手元のハンバーグに視線を落とした。マフィンもハンバーグも結構な量を作ってしまった。一人では消化しきれない。
 しばらく考えてから、雪見はハンバーグをタッパーに詰めた。ラッピングしたマフィンと一緒に紙袋に入れて、身支度を整える。
 東銀座なら有楽町線で一本だ。二十分もあれば着くだろう。

 万年筆売り場は観光客と思しき人で賑わっていた。平日の夕方よりも人が多い。お盆の時期だからこそ訪れる客もいるのだろう。いつもとは若干雰囲気の異なる店内を一周したが、千歳の姿は見当たらない。
 当然だ。千歳だって帰省しているのだろう。お盆の時期に一人でいるのは自分くらいだ。
「なんか用」
 雪見は飛び上がりそうになった。
「へあ! あああ秋本さん!」
「ウッセー」
 千歳は眉を寄せた。制服のエプロンは着けていないが、黒のスラックスに白いシャツ姿だった。
「で、万年筆でも買いに来たんか」
「いいえ、今日は買い物ついでに立ち寄っただけで」
「買い物?」千歳はあからさまに怪訝な顔をした「ついでに来るような所か、ここ」
「秋本さんはこれからお仕事ですか」
 雪見は強引に話題を変えた。万年筆は眺めるだけでも楽しいのだが、興味のない千歳に説明しても納得してくれないだろう。
「今日は昼まで。昼飯食って帰る」
「美味しいお店がたくさんありますものね。お店はお決まりですか」
「昼飯にウン千円も掛けられるかバァカ。駅前のコンビニだよ」
 踵を返した千歳を、雪見は呼び止めた。紙袋を掲げて見せる。
「もしよろしければいかがですか。お腹の足しにはなるかと」
 千歳は胡乱な目で紙袋を覗き込む。ラッピングしたマフィンとタッパーに入れたハンバーグ。
「微妙な組み合わせだな。なんで俺に?」
「先日のたまごドーナツのお礼とお考えください」
 同時に思い起こされる件の口論。自分で蒸し返していては世話ない。千歳も同じことを思ったのだろう。気まずげに頭をがしがしと掻いた。
 店内でずっと喋っているのも気が引けたので、駅前に場所を移した。いつぞやモデルの交渉をした時と同じ場所だった。
 道の往来での飲み食いに全く抵抗がない千歳は、雪見の見ている前でハンバーグ三つを平らげた。コンビニで購入した麦茶をがぶ飲みし、マフィンも二つ食べて「あっつい」とぼやく。
「暑いのは苦手ですか?」
「この気温じゃ苦手も得意もねェだろ」
 たしかに陽炎も見えそうほど日差しも強い。千歳は喉を鳴らして麦茶を飲む。
「ンで? 何があったんだよ」
 千歳は空になったタッパーの蓋を指で叩いた。
「ご馳走さん。うまかった。でもコレ、おめーが作ったんだろ? 俺に食わせるためだとは思えねェんだけど。仮にそうだとしても、あのオバサン達が黙ってるはずがねェ」
 伊達に被害を受けていない。千歳は継母の習性をよく理解していた。
「秋本さんのおっしゃる通りだった、ということです」
 雪見は肩を落とした。決して悪い父や継母ではない。いわゆる毒親と呼ばれるような類では決してない。だが、父親や母親である前に優先すべきことがあるだけだ。それを寂しいと感じる自分が幼いのだ。
「私が未熟なのがいけないのです」
「意味わかんねー」
 千歳は飲み干したペットボトルのビニールを剥がした。
「この前のことは悪かったよ。他人ン家の事情に口出しするなんざ野暮だった。おめーが怒るのも無理はねェ」
 ビニールは燃えるゴミへ。ペットボトルは資源回収へ。後片付けを済ませた千歳は大股で雪見の所に戻った。
「俺がムカついてんのは、おめーの態度だ。卑屈過ぎなんだよ。言いたいことがあるなら言えばいいだろ。おめーがはっきり言わねェから、あのオバサン達が勘違いして暴走すんだよ。いい加減気づけ」
 千歳はこれ見よがしにため息をついた。
「絵のモデル頼む時は他人の迷惑お構いなしのくせに、なんで今さら及び腰になンだよ。こっちはその気になってんだから、てめーが最後まで突き進まなきゃ困るだろーが。いつまでもすまなそうな顔で音楽室の隅にいんじゃねェ。もっと胸を張れ、胸を」
「はい。すみま」
 せん、と頭を下げかけて、雪見は自分がまたしても卑屈な態度を取っていることに気づいた。
 我慢しているつもりはなかった。
 白羽家に引き取られて、雪見は何不自由ない生活を送っている。毎日ご飯が食べられて、学校にも通えて、好きな絵も描ける。そんな毎日が、当たり前だと思うことが怖かった。今が特別なのだと言い聞かせなければ、いざ取り上げられた時に立ち直れなくなりそうで。
 黙り込んだ雪見に千歳は舌打ちした。
「用はもう済んだのか」
「え?」
「買い物、終わったのか?」
「あ、はい。終わりました」
 そもそも買い物の予定なんてない。千歳に会うための口実だ。
「俺はこれから楽器屋行くんだけど」千歳はどこか不貞腐れたように言った「おめーも来るか?」


「楽器屋」と言っていたので、楽器全般を扱う店だと思いきや、千歳が向かったのは弦楽器専門店だった。足を踏み入れるなり、雪見は歓声をあげた。ガラスケース内に整然と並べられたヴァイオリン。店内奥まで続くヴァイオリンの列は壮観の一言に尽きる。
「結構面白いだろ?」
「すごいです。こんなにたくさん……」
 雪見は店内を見回した。奥に進むにつれてヴィオラ、チェロと大きな弦楽器が顔を出す。どれも飴色の美しい楽器だった。
「今、千歳さんがお使いになっているヴァイオリンもこちらでご購入されたのですか?」
「いや、あれは別」
 千歳曰く「親戚のツテ」で紹介された店で黒いヴァイオリンを購入したらしい。
「メンテとかは近いココで頼んでる。弦とかも全部揃ってっから」
 指差した先にあるのは雪見の胸元ほどの高さの棚だった。小さな引き出しがたくさんあり、一つ一つにメーカーのマークと商品名が書かれていた。
「これ全部ヴァイオリン用の弦ですか?」
「ガット弦とかナイロン弦とか色々あんだよ。メーカーによって全然音が違ェし」
「お値段もずいぶん違うのですねー」
 下は数百円、上は八千円と大きく差がある。
「秋本さんはいつもどの弦をお使いなのですか。他の方とは違いますよね?」
「へえ……おめー、違いがわかんの?」
「弦の太さもさることながら音が違いますもの。部長さんと綾瀬さんは同じ弦ですよね」
「『ドミナント』な。扱いやすいし、音も安定してる。定番中の定番弦。ヴァイオリン専攻生以外の連中は安い弦使ってるから音の差は歴然だな」
 千歳は右端の引き出しを指差した。
「俺はもっぱらコレ」
「ほー、エバピ、ラ?」
「『エヴァピラッツィ』」
 筆記体で書かれた商品名を千歳はよどみなく読み上げた。
「スチール弦の『ザイエックス』も好きなんだけど、音がデカ過ぎてエレキギターみてェな感じになんだよなァ」
 雪見は貼られた値札シールを凝視した。
「あの……秋本さん」
「ん?」
「これ、四本揃えると一万二千円はしますよね」
「するな」
「ヴァイオリンの弦って三ヶ月に一度くらいの頻度で交換しますよね」
「まあ人によりけりだけど、練習やり過ぎると一ヶ月もたねェこともあんな」
 ということは、だ。定番の弦を使えば七千円ちょっとで済むところを、千歳は変にこだわっているせいで一万二千円も費用をかけていることになる。
「ンだよ。言っとくけどな、ピラストロの『オリーブ』なんかガット弦だから二万くらいすんだぞ」
「弘法筆を選ばず」
「俺は選ぶんだよ、悪ィか」
 千歳は鼻を鳴らした。
「だいたい、おめー音痴のくせになんで耳だけはいいんだよ」
「たしかにそうですけど」
 言い掛けて雪見は首をひねった。
「待ってください。どうして私が歌が不得手だということを秋本さんが知っているんですか」
 小学校の音楽の授業でクラスメイトに笑われてから(そして継母が笑った生徒の家庭に報復してから)極力人前では歌わないようにしている。自分の壊滅的な歌の下手さは自覚している。リコーダーなどの器楽はさておき、とにかく音程が悪い。真弓が矯正を試みたが鍛えられたのはリズム感だけで、音程改善は断念せざるを得なかった程だ。
「ンなもん、一回聞きゃあわかる」
「いつですか? 私、歌った覚えがありません。そんな公害レベルの迷惑行為を一体いつしてしまったのでしょう」
「自分の音痴をよくそこまで悪く言えるな。いつも何もおめー、」
 中途半端な所で千歳は口を噤んだ。考え込むように視線を弦に落とす。
「秋本さん?」
「……忘れた」
 言い捨てて千歳は『エヴァピラッツィ』の弦一組を取り出した。
「いちいち覚えるわけねーだろ、そんなもん」
「まさか。忘れられるような音痴ではないはずです」
 食い下がる雪見。しかし千歳は頑として教えてはくれなかった。そのあとはずっと黙ったまま、駅まで足を運んだ。
 納得できない。思い返しても心当たりが全くなかった。小学校から遠く離れた今、継母以外は誰も知らないであろう事実だ。気分が高揚している時も、周囲に誰もいない時でさえ、歌わないようにしているというのに。
「あのさ」
 駅での別れ際に千歳はようやく口を開いた。
「家庭の事情も全然知らねェ俺が言うのもなんなんだけど、おめーが思ってるよりもずっと、あのオバサン達はおめーのこと大事に思ってるのはわかるわ」
 何を根拠にそう言っているのか不明だが、千歳の言葉にはいやに実感がこもっていた。


 帰省のお土産が食べきれないほどの食材や高級菓子なのは予想の範疇。三日ぶりの継母達との夕食。話題がもっぱら成政の様子なのもいつも通りだ。
「それでね、成政様が私が作った肉じゃがが一番美味しいって」
「煮物で優越感に浸られてもねえ」
「うるさい。煮物もできないくせに」
 真弓に水を差された椎奈が噛みつくのもお決まりのパターン。雪見はひたすら聞き手に徹していた。ミートローフはたしかに美味しかった。
「なんかいいことでもあったの?」
 脈略もなく訊ねられ、雪見はサラダのプチトマトを落としそうになった。桜は苦笑した。
「ごめんなさい。いつもより、その……楽しそうだから」
「絵が完成しそうなの?」
「いえ、ただ」
 言葉を濁して、雪見は不意に千歳が言っていたことを思い出した。お土産とブッキングしたことを言えば真弓達が嫌な思いをするだろうから、伏せておくつもりだった。でも、自分にだってこの三日間それなりに楽しかったことを自慢する権利はあるはずだ。
「今朝、ハンバーグを作りまして。思いの外美味しかったのです」
「ハンバーグ?」
 柚子は手元のミートローフに視線を落とした。
「うわ、ごめん。重なったな」
「そんなことはどうでもいいわ。雪見のハンバーグよ、ハンバーグ!」
「ドコニアル」
 台所に突撃した菫の背中に「もう食べちゃいましたよ」と雪見は声を掛けた。途端、継母達から悲鳴のような不満の声があがる。
「一人で全部食べちゃったの?」
「秋本さんに差し上げました」
 食卓についている継母達が一様にこの世の終わりのような表情を浮かべた。
「なんて、こと……っ」
「まさか私達がいないのをいいことに、男を連れ込んでふしだらな」
「連れ込んでいませんし、秋本さんと私はそんな関係ではありません!」
「でも雪見のハンバーグをあの青二才が独占したという事実に変わりないわ」
 真弓は深刻な面持ちで考え込む。憂いを帯びた眼差しは色気があり大変美しいが、いかんせん悩みのタネがハンバーグではしまらなかった。
「いや、あのどう考えても今食べているミートローフの方が美味しいですって」
「雪見のハンバーグ……雪見の手作り…………」
 柚子は打ちひしがれて立ち直る気配もない。
 桜と椎奈も暗い表情で沈み、菫に至ってはどこから引っ張り出したのか長刀を手にして、そのまま秋本家に討ち入りしかねない様相だ。
 仕方なく雪見は「今度、皆さんにも作りますから楽しみにしてくださいね」と言った。途端、継母達の表情が晴れた。基本的に継母は単純なのだ。
「本当カ?」
「嘘は言いません。だから菫さん、長刀をしまってください」
「約束だぞ」
 喜ぶ継母達を前に雪見はハンバーグを残さず食べてしまったことをほんの少しだけ後悔した。変な見栄を張らずに取っておけばよかった。
 いや、それよりも今はーー食事が終わったら絵の制作を進めよう、と雪見は思った。無性に、絵筆を手に取りたくてたまらなかった。

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