『白雪姫と七人の継母』第十八話「継母の地雷」

 そして迎えた放課後、雪見は自宅のマンション前で千歳を待った。エントランスのオートロックは指紋認証で解除されるようになっている。登録されている雪見と一緒に入った方が手間が省けると判断してのことだった。
 千歳には数分前に約束の場所に待機しているとメッセージを送っておいた。返事はないが既読はついているので、読んではいるのだろう。
 果たして約束していた時間通りに千歳は現れた。制服姿で険しい顔をしている。ともすれば不機嫌に見えるが彼の場合は目つきが鋭いのでこれが平常なのだと雪見は知っていた。背中からヴァイオリンケースが顔を覗かせている。
「おい」
 千歳はエントランスに入るなり、自身の後方を顎で示した。
「これ、どーにかなんねェの?」
 雪見は千歳の背中を覗き込んで、目を見張った。今日はいやに大人しいと思っていたらこんなところで。
 千歳より頭ひとつ分低いため見えなかったが、彼の背後にはもう一人いた。全く周囲に溶け込めていない迷彩服をまとった菫だ。大真面目な顔で千歳の背中にエアガンを突きつけている
「無駄口ヲ叩クナ」
 と千歳に命じておきながら自分は「オカエリ。学校ハ楽シカッタカ?」と雪見に世間話を振った。
「はい。今日は家庭科の調理実習でマフィンを作りました」
「ソレハ良カッタ」
「俺は全然良くねェよ」
「今度家でも作りますね」
「食ウ!」
 背中で繰り広げるささやかな親子の会話。千歳は額に青筋を浮かべた。
「話聞け」
「もちろん秋本さんの分も作りますから、ご心配なさらずに」
「感謝シロ」
「いらねーよ!」
 千歳が怒鳴った。よほど甘いものが嫌いなようだ。雪見と菫は顔を見合わせた。
「おせんべいの方がお好きですか?」
「草デモ食ッテロ」
「菫さん、秋本さんに失礼です」
 雪見がたしなめるが聞く耳持たず。菫はそっぽを向いた。子どものような態度だ。どちらが母なのかわかったものではない。
「……やっぱ帰る」
「え、そんな!」
 踵を返した千歳はつい今しがた通った自動ドアの前に立ちーー固まった。待てど暮らせどドアが開く気配はない。それどころかしっかりとロックが掛かっていて、いくら力を込めてもドアは全く動かない。
「おい、どーいうことだコレ」
『こういうことよ』
 応対用のインターフォンから返答。真弓の声だ。
『まさかいきなり挨拶に乗り込んでくるとは……大した度胸だわ。でもここからタダで帰れるなんて夢にも思わないことね』
「アホか、普通は思うわ!」
 マイクに向かって吼える千歳。雪見は首をかしげた。
「おかしいですね。今日は、真弓さんはお仕事があるはずでは」
「その前に突っ込むトコが山ほどあるだろーが! なんで管理人でもねェのにマンションのオートロック操作が出来んだよ」
 マンションのオーナーだからだ。先日有紗が遊びに来た際にそうなった。

 仕事であるはずの真弓がいた時点で嫌な予感はしていた。しかし平日である。しかも千歳の来訪は急に決まったことだ。
 にもかかわらず、継母全員が勢揃いして雪見と千歳を出迎えた。有紗が遊びに来た時を彷彿させる対応。違うのはレッドカーペットがないことと、お茶菓子の用意もなく、菫以外の継母がリビングで面接官よろしく椅子に並んで座って待っていたことだ。どう好意的に解釈しても歓迎しているような雰囲気ではない。
「はじめまして。白羽家の当主、白羽成政の正妻の椿と申します」
 代表して椿が型通りの挨拶をする。その間も他の継母達は値踏みするような眼差しを千歳に注ぐ。
「やめてください。秋本さんに失礼です」
 見かねた雪見が抗議するが、真弓に「あなたは黙っていなさい」と跳ね除けられる。
「秋本千歳さんと言ったわね」
「俺の個人情報調べておいてよく言うぜ。白々しい」
「あんた、また首を突っ込んだの?」
 椎奈が咎める。真弓は悪びれるどころか胸を張った。
「悠長なあなた達に代わって調査しておいたわ。感謝してね」
「どうせまた発信器つけたり盗聴したんでしょう」
「失礼ね。私はそんな破廉恥な真似はしないわよ!」
「おい、私の方を見て言うな。だいたいこの前だって、お前が雪見に仕掛けろと言うから」
「おやめなさい。お客様の前ですよ」
 椿の一言で柚子、椎奈、真弓が一斉に口を噤む。
「おおよその経緯は菫と真弓から伺っております。雪見の絵のモデルになってくださるとか」
 椿は形の良い眉を僅かに寄せた。
「ご存知かと思いますが、雪見は白羽成政様の嫡子で白羽家の正統なる後継者です。未成年とはいえ相応の振る舞いが求められます。本人も十分自覚しており、わたくしの目から見ても問題はないと判断しております。しかし、こと異性に関してとなれば話は別です。雪見はまだ十五です。思いやりのある子ですが男女の機微に詳しいとは言えません。過保護のそしりを受けても保護者として厳しく監視し、必要とあらば干渉も辞さない所存です」
 ひとしきり椿のお言葉を聴いてから、千歳は訊ねた。
「つまり?」
「端的に申し上げますと、高校生らしい健全な交際をお願いいたします」
「健全な交際、ね」
 意味ありげな視線を椿の後ろに控える柚子達に投げかけた。千歳は鼻で笑った。
「この状況でそれ言う?」
「おっしゃりたいことはわかります。ごもっともです」
 正妻の椿以外に六人の愛人をはべらせているような家の者が言う台詞ではない。椿は額に手を当てた。
「だかこそ同じ轍を踏みたくないのです」
「あの、椿さん」
 及び腰になりながらも雪見は訂正した。
「そもそも秋本さんと私はあくまでも友人で」
「今はそうかもしれないけど、男女の仲はいつどうなるかわからないものなのよ」真弓がたしなめる「今のこの状況を見ればわかるでしょ。私だって大誤算よ」
「でも秋本さんは大丈夫です。私のことは鈍くて図太くて面倒で全然タイプじゃないって」
「バッーーおま、それ今言っ」
 血相を変えて千歳が振り向いたのと、椿の笑顔が凍りついたのはほぼ同時だった。椿だけではない。柚子も椎奈も真弓も桜も菫も百合もーー要するに継母全員が一様に凍りついた。
「もう一度おっしゃっていただけますか」
 口調は丁寧。しかし声に凄みがある。浮かべる笑みは上品で美しい。しかし目が全く笑っていない。
 雪見は失言を悟った。とんでもない地雷を千歳に踏ませてしまった。戦慄に身をこわばらせる千歳に向かって、七人の継母達は異口同音に訊ねた。
『誰の娘が全然タイプじゃないって?』

 継母七人に無礼さを非難され、女性に対する心得を切々と諭され、ついでに白羽家の華麗なる躍進(人はそれを『成り上がり』と言う)の歴史を語られて、ようやく解放されたのが小一時間後。なおも首を突っ込もうとする継母達をなんとか宥めて、雪見は千歳を連れて自室に逃げ込んだ。
「ちょっと、二人きりなんて聞いてないわよ!」
「密室で一体何をするつもり!?」
 一部納得していない継母が騒ぎ立てるが、扉を閉めてしまえば聞こえない。防音は完璧だったーーはずだった。しかし外からの執拗なノックは想定外だ。雪見は勢いよく扉を開けた。
「もう時間がないんですから、邪魔しないでください」
 扉の前にいた真弓と百合と椎奈がそろって絶句した。
「じゃ、邪魔、ですって」
「仮にも母親に向かって、そんな暴言を吐くなんて」
「なんて、こと……」
 受けた衝撃は大きかったようだ。百合に至っては額に手を当てて、よろめいた。かと思いきやその場に崩れ落ちた。芝居がかった様相で唇を噛む。
「嗚呼……これはきっと夢ですわ。あの優しい雪見さんが、いくら真弓さん相手とはいえ……母親に向かって『邪魔』だなんて」
「なんで私だけが邪魔者呼ばわりされたことになってんのよ。あんたもでしょうが」
 真弓の指摘もなんのその、百合は「よよよ」とハンカチを目に当ててこれ見よがしに嘆いた。
「やはり、やはりわたくしが雪見さんと一緒に住むべきでしたわ……真弓さんのように性に奔放で殿方に見境のない方の側にいるから、雪見さんまでもが影響を」
「誰が男に見境がないってえっ!」
 百合に掴み掛かった真弓。椎奈や桜が慌てて止めるのも聞かず、取っ組み合いの喧嘩に発展した。
「きゃあ! やめて、こ、殺さないでぇ!」
「いっそいっぺん死んでみたら! 少しは馬鹿も治るでしょうよ!」
「やめてください二人とも!」
 廊下で繰り広げる昼ドラばりの醜い争いに、雪見は何度目かもわからない戦慄を覚えた。引っ掻き、はたき、殴り、首を絞めとーー特に真弓の喧嘩は、何度見ても凄まじい。振り向けば、千歳がぽかんと口を開けたまま、継母同士の争いを見ていた。
 雪見は何か弁明しようと口を開いた。しかし、いい歳した大人の女性が、子どもでもしないような、容赦の欠片もない喧嘩を繰り広げるそれっぽい理由も、言い訳も、何一つ思い浮かばなかった。潔くあきらめて扉を閉めた。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「いや、なんか……すげェな」
 怒り心頭に発しているかと思いきや、意外にも千歳は平然としていた。動揺こそ多少しているが苛立っている様子はなかった。
「ホントに七人いんだな」
「……怒っていないのですか?」
「怒りを通りこして呆れた。つか感心したわ。こんな典型的な過干渉モンペ、いるんだな」
 継母を未知の珍獣呼ばわり。酷い言い草だが文句を言える立場ではなかった。最初に無礼を働いたのは継母達だ。挙句、継母同士で人目もはばからず取っ組み合いーー弁解の余地はない。
「普段はまと、じゃなくて、いい人達なのですが……時折、そう、たまに、羽目を外してしまうと言いますか、暴走してしまったり、突飛な行動を取ってしまうだけで」
「全部同じ意味な」
 千歳は終始背負っていたヴァイオリンケースを下ろした。雪見に断ってから机の上にケースを置いて、留め具を外して開く。ほのかに松脂の香りがした。
「オールドヴァイオリンですか」
「おめー知ってんの?」
「少しだけですが。真弓さんがヴァイオリニストなので」
 雪見の部屋を防音にしたのは真弓だ。雪見にヴァイオリンを教えるつもりで譜面台とスモールサイズのヴァイオリンまで準備していたのだが、他の継母達の反対にあったのと、雪見が音楽にまったく興味を示さず絵画にばかりかまけているのを見てあきらめたらしい。
「フリーデブルクの三十三番。あんま有名な職人じゃねェけど」
「でも格好いいですね。暗めのニスを使っているんですか? 木目と相まってなんとも……黒いヴァイオリンなんて初めて見ました」
「音もいいんだぜ。店で弾かせてもらって一発で決めた」
 お値段も相応だったらしい。高校入学祝いとして親にせびり、店主に値段交渉してようやく手に入れたと千歳は語る。
「交渉できるものなのですか?」
「楽器じゃあんまりやんねーな。でもまあ、向こうも値下げに応じてくれたし」
「いい店長さんですね」
 返答はなかった。千歳は考え込むように手元のヴァイオリンに視線を落とす。
「秋本さん?」
「……商売上手なだけだろ」
 千歳は鼻を鳴らした。
「最初から俺に売りつけるつもりだったんだよ。他に買い手がつかねーから」
「こんなに素敵なヴァイオリンなのに、ですか?」
「ヴァイオリンに百万や二百万掛けるのは相当な金持ちか音楽家か音楽家志望のどれかだ。いくらいいヴァイオリンでも、需要がなけりゃ店の飾りにしかなんねェよ」
 千歳は肩当てを素早く取り付けた。慣れているようで会話しながらだというのに手際がいい。肩に乗せて、空いた左手で音叉を鳴らした。まずはA線を調弦。あとは開放弦の和音ーー自分の耳だけを頼りに残り三本の音を合わせた。
 その間に雪見はいつもは絵を描く際の参考資料置き場にしている譜面台を組み立てた。もしかしたらこの譜面台を本来の用途で使うのはこれが初めてかもしれない。
「ーーで」
 開いた楽譜を譜面台に乗せて、千歳は振り向いた。
「とりあえず今日は演奏すりゃあいいんだよな?」
「あ、はい。スケッチさせていただきます」
 雪見は机の引き出しからスケッチブックを取り出した。絵のモデルが決まったところで、次は構図を考えなくてはならない。具体的にはモデルのポーズや視点、モチーフ。装飾品や背景ならまだしも、構図は一度描き出したら変更は難しい。だからいくつか候補のラフ画をあげて吟味する必要があった。
「秋本さんの魅力が一番引き出せる構図を見つけます」
 鉛筆を立てて意気込む雪見に、千歳は「あっそう」と気のない返事をした。


 弓を構えた瞬間に千歳の表情が変わる。勝負前のような緊迫感。一瞬にして張り詰めた空気に、雪見の背筋が無意識の内に伸びた。
 定期演奏会の演目『メサイア』を弾くのかと思いきや、千歳は全く違う曲を奏で始めた。
 一音一音ぶった斬るような出だし。特徴的な冒頭に、専門でない雪見でさえもすぐさま曲の名が思い浮かんだ。
 エドゥアール=ラロ作曲の『スペイン交響曲』だ。真弓曰く「ツッコミ所しかない名前の曲」。フランスの作曲家が『スペイン』交響曲を作った点ーーは、よくあることなのでいいとして、最大のツッコミポイントは後ろに添えられた『交響曲(シンフォニー)』の単語。
 交響曲なのにヴァイオリンの独奏がある。一ヶ所、二ヶ所どころではない。五楽章全てにヴァイオリン独奏がある。完全にヴァイオリンソロが主役でオーケストラは伴奏だ。しかも奏でるのは南欧スペインを彷彿とさせる情熱的なメロディー。大変派手で格好いいヴァイオリンソロ。交響曲なのに演奏する際はヴァイオリンのソリストを用意しなければならない。いやこれヴァイオリン協奏曲(コンチェルト)でしょう、と音楽家なら誰でも一度は思うらしい。
 これがただの名曲だったのならちょっと変なヴァイオリン協奏曲もどきで終わっただろう。しかし、どういうわけかこの『スペイン交響曲』はラロの代表作で、音楽史に残る超名曲だった。ツッコミと共に後世に継がれ、現在に至る。
「おい」
 第一楽章を二回さらったところで千歳は弓を止めた。
「手、止まってんぞ」 
 自分に話し掛けているのだと気づくのに数秒を要した。雪見は我に返って、真っ白のスケッチブックを見下ろした。線の一つも描けていなかった。
「……あ、はい」
 握ったままの鉛筆を構える。演奏を再開した千歳をじっくり観察。一度ヴァイオリンを弾き始めたら傍に誰がいようと全く気にならないらしく、千歳は真っ直ぐ前を向いていた。
 一回目の本番さながらな演奏とは違って、今度はいくぶんか落ち着いた、悪く言えば緊迫感のない演奏だった。とはいえ、ぎこちない箇所は何度も執拗なくらいさらったり、楽譜に何やら書き込んだりと余念はない。運指を確認しながら、正確に、滑らかに。反復練習を飽きることなく丁寧に続ける様は、アスリートを彷彿とさせた。
「あの……できればなのですが、お願いが」
「ンだよ」
 面倒くさそうにしながらも千歳は演奏を止めた。
「もっと穏やかと言いますか、あまり激しくない曲を弾いていただけますと……大変助かるのですが」
「のんびりまったり『G線上のアリア』とか『愛の挨拶』でも優雅に弾けってか。課題でもねェのに」
「そういう意味ではなく、この前拝見した管弦楽団の皆さんと演奏していたような、感じの……」
 尻すぼみになる。雪見自身もよくわからなかった。ただ、今日の千歳は先日見学した時とは違う。何がどう違うとは明確に言えないが、何かが違った。
「『メサイア』と『アルルの女』だってそんなゆっくりな曲じゃねェよな。変わんなくねーか?」
 たしかに。一概に曲のせいとも言えなかった。『メサイア』も『アルルの女』も短調かつテンポの早い曲だ。
 違いは曲ではないーー強いて言えば、雰囲気だ。
「先日はすごく安定感があって、どっしりと構えていた感じでした。だから私も集中してスケッチすることができました。でも今の秋本さんだと落ち着かなくて、その……剥き出しと言いますか、荒っぽいと言いますか」
「意味わかんねェ」
 眉を寄せた千歳だったが、不意に思い当たったらしく「あー……そーゆーことか」とひとりごちた。
「要するにソリストとコンマスの違いだな」
 千歳は譜面台に弓を置いた。左手にヴァイオリンを抱えたまま、床に胡座をかく。雪見もならって床に正座した。
「同じヴァイオリニストでは?」
「役目が全然違ェよ。ソリストは花形、主役だ。一人で六十人近いオーケストラの連中と張り合って協奏曲コンチェルトやんだ。オケに喰うか食われるかって時にお上品に演奏はできねーって」
 千歳は弦を指で弾いた。
「反対にコンマスはオケ全体のこと考えながら弾いてっから、まあ自由には弾けねェな。ボーイングだって全員揃えなきゃなんねェし、出だしとかのタイミングもある」
 意識せずに見ていたが、言われてみれば合奏の時、ヴァイオリンの弓は全員、上下の向きもタイミングも含めて同じ動きをしていた。事前にボーイングを合わせていたのだろう。素人の雪見には考えもしなかったことだった。
「オケは団体戦だ。個々の演奏技術が高くても調和がなきゃただの騒音。六十人もいる演奏者全員が好き勝手に弾いたら曲が成り立たなくなる。だからまとめ役が必要なんだよ。本番直前に指揮者がぶっ倒れて代役が見つかんなかったら、コンマスが代わりに指揮すんだぜ」
 雪見は目をしばたいた。千歳が指揮棒を振る姿を思い描くことができなかった。ヴァイオリンを手放す千歳を、というべきか。だって、先日のリハーサルの時も、今もこんなに練習しているのに。
「秋本さんが本番で弾けなくなるかもしれない、ということですか?」
「さすがに指揮台に登りはしねーけど、ヴァイオリン弾きながら指示出すことになんだろうな。必然的に俺は途中音抜けすっかもしんねぇけど、サブパートリーダーもいるし全体には支障ねェよ」
 あっけらかんと言う千歳は割り切っているようだった。
「でも、ヴァイオリン奏者として頑張っているのに」
「全員弾けなくなるよかマシだろ」
 雪見はあぜんとした。
 絵画とは違って音楽のような無形文化は本番が全てだ。だからこそ、たった一回の本番で最高の演奏をするために、各々力を尽くしているのではないのか。自分の怪我や病気ならばまだしも、他人の事情で『本番』を捨てなければならないなんて、にわかには信じがたいことだった。それまで重ねてきた努力を自ら捨て去るようなものではないか。
「ンなマジで考えんな。滅多にねェよ、コンマスが指揮代役なんて。ウチは指揮科専攻生もいるし、音楽科教師なら指揮くらいなんとかできる」
 千歳は部屋にある時計を見上げた。
「で、約束の時間まであと五分なんだけど?」
「すみません。練習の邪魔をしてしまって」
「いや、俺は別にいいけど、おめーは? スケッチはできたんか」
 実のところほとんどできていない。スケッチ帳はほぼ白紙。しかし、雪見の頭の中では絵のイメージが固まりつつある。
「おかげ様で、なんとかできそうです」
「ん」
 千歳は頷き、腰を上げた。譜面台の弓を手に取った千歳に、雪見は慌てて頼んだ。
「もう一回弾いていただけませんか。先ほどのラロ。一楽章だけでも」
「『G線上のアリア』の方がいいんじゃねーの?」
「ラロの方がいいです」
 はっきりと言う雪見に、千歳は胡乱な眼差しを向けた。
「そんなに好きなもんかねェ」
「はい」
 雪見は笑顔で答えた。見栄や意地を張っているわけでも、ましてや嘘でもない。ラロ作曲の『スペイン交響曲』が聴きたかった。
「今日、好きになりました」

 部屋から出た時、既に椿と柚子と百合の姿がなかった。それぞれの自宅に帰ったらしい。真弓にぼこぼこされた百合は病院に行くと喚いたらしいが、そんな大きな怪我とは考えられない。せいぜい自宅療養だろう。後でお見舞いのメールを送ろうと雪見は思った。
 残った継母四人と、千歳を交えての晩餐。用意したのはいつも通り椎奈だった。
 祝事でもないのに食卓に赤飯が並んでいたのは不思議ではあったが、沈痛な面持ちでお赤飯を盛ったお茶碗を差し出す椎奈には訊けなかった。真弓は眉間にシワを寄せ、桜は赤飯と千歳を交互に見ては深いため息をつき、菫は木刀片手に終始千歳の背後に立っていた。
 異様な状況にも慣れたのか、もはやツッコむ気力もわかないのか、千歳は振り向き菫に訊ねた。
「食べないんすか」
「ソコノ煮物ヲモラオウカ」
 小鉢の煮物を千歳から受け取り菫はお赤飯のおにぎりと一緒に食べた。なんだかんだで親しくなっていた。
 親密度が上昇していたのは、菫に限ったことではなかった。ヴァイオリンという同じ楽器の奏者なので真弓と千歳の会話は弾んでいた。桜も以前の無礼を詫びつつ会話に入っていたし、椎奈も椎奈で千歳が「この漬物自家製っすか」と訊ねた途端に機嫌を良くした。
 意外にも和やかな晩餐を終えて、千歳はあっさり帰っていった。車での送迎は「面倒くせえ」の一言で突っぱねて、電車で。
「今日はありがとうございました。お気をつけてお帰りください」
「おー」
 千歳は覇気のない返事をして、片手を上げた。そのまま振り向くことなく駅の方へ。背負ったヴァイオリンケースが小さくなっていくのを、雪見は見送りマンションに戻った。
「そこに座りなさい」
 待ち構えていた真弓が厳かに告げる。雪見はリビングのソファーに座った。その向かいに真弓が腰を下ろす。
「どこまで進んだの?」
「スケッチは十分です。あとはイメージを固めて絵の構図を」
「絵のことじゃないわ。あの男とはどこまでーー手をつないでなんかないわよね?」
「まさか、」
 否定しようとした雪見の脳裏に先日の一件がよぎった。バイト上がりの千歳を呼び止めて駅前で少し話をした。初めてまともに言葉を交わしたあの時。彼の手がいかに素晴らしいかを訴えたような気がする。
 口を噤んだ雪見に、真弓は唇をわななかせた。
「……つないだの?」
 けたたましい音。台所からだ。反射的に目を向けると、洗い物をしていた椎奈が顔を真っ青にしてこちらを見ていた。
「嘘でしょう」
「いえ、あの手に触りはしましたが、つないだわけでは」
「なん、てこと……っ!」
 洗いかけの鍋を放り出し、椎奈は額に手を当てた。
「なりゆきで手を掴んでしまっただけです!」
 しげしげと眺めたり揉んだりもしたがそれもなりゆきだ。他意はない。
「そうそう、秋本さんのヴァイオリンをじっくり見せていただきました。珍しくて、すごく綺麗でした。黒いヴァイオリンなんて私、初めてです」
「黒いヴァイオリン?」
 目論見は成功。専門のヴァイオリンに話題を移すと、真弓が食いついた。
「サイレントヴァイオリンとかエレキのではなくて?」
「オールドヴァイオリンです。木目が黒くて、ニスも暗いのを使っているそうです。真弓さんはご覧になったことがありますか?」
 真弓は首を横に振った。
「製作者は誰?」
「フリーデブルクさんです」
「ああ、そういうことね」
 千歳曰く「あまり有名な職人ではない」のだが、さすがヴァイオリニストだけあって、真弓は府に落ちたようだ。
「ご存知なのですか?」
「多少ね。ガダニーニの前に使っていたヴァイオリンがフリーデブルクよ」
 真弓が今愛用しているヴァイオリンは成政からのプレゼントだ。かのストラディバリウスに次ぐ名職人のオールドヴァイオリンで、お値段も相当。何しろ歴史的な文化遺産でもあるのだ。まずもって成政がどうやって貴重なヴァイオリンを入手したのかがわからない。
「高校生のくせにいいヴァイオリン使ってるじゃない」
 普段、ガダニーニを弾いている真弓に言われるのは千歳も心外だろうが。
「……ねえ、ヴァイオリンを隅から隅まで見せてもらったの?」
「いいえ、表面だけですけど」
 真弓の口が弧を描いた。細めた目が輝く。獲物をいたぶる猫を彷彿とさせる表情だった。
「じゃあ今度、裏も見せてもらいなさい。あるとしたら背板でしょうね」
「裏に何があるんですか?」
「フリーデブルクって、変人なのよね。腕はいいのだけど職人として活躍していた期間は短いし、黒いヴァイオリンとか、異様に明るいヴァイオリンとか、音に影響しない範囲で好き勝手やっては、異端児扱いされてたそうよ」
 真弓は自信たっぷりに断言した。
「裏まで見せなかったのが証拠よ。絶対に何かやっているわ」

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