『白雪姫と七人の継母』第二十六話「特別な子」

「それだけで帰っちゃったの!?」
「吉森さん、声が」
 教室の隅で弁当をつついていた吉森有紗は周囲を見渡し、気持ち程度に頭を下げた。
「ごめん。で、二週間振りのミューズ先輩との逢瀬にもかかわらず、世間話で別れたと」
 千歳にモデルを頼んで以来、有紗は「ミューズ先輩」と勝手に呼び続けている。本人が聞いたら間違いなく怒る呼称だ。
「他に何を話せと? それどころじゃないんだから」
「大変な時だからこそ頼るチャンスじゃない。モデルをもう一回頼むとか」
「お金がありません」
 天下の白羽家にあるまじき発言だが事実だ。夏休みのアルバイトでも足りず、千歳にはモデル代の支払いを待ってもらっている状況。延長など頼めるはずがなかった。
「安くしてもらえばいいじゃない。ミューズ先輩だって絶対気があるって」
「そもそも私は秋本さんをそういう対象として見ていないわけでして」
「はいはいあくまでも人として好きなんでしょ」
 言葉に反して有紗はまったくわかっていないようだった。
 モデルと画家は恋愛関係に発展することもままあるが、千歳と自分に関していえば当てはまらない。契約ありきの関係である上に、千歳には毎回怒鳴られている。絵が完成したらそれで終了。他校の、学科も違う先輩と後輩では今後関わることもないだろう。
「でもお昼差し入れしたんでしょ」
「なりゆきです」
「銀座でデートしたんでしょ」
「楽器屋さんに行っただけです」
「東京駅で手をつないで、家まで送ってくれたんでしょ」
「一刻も早く絵を完成させたくて急いで帰っただけです」
 しかし思い返してみれば、ずいぶんと親密になっている。三つ下の妹がいるせいか、見かけによらず千歳は面倒見がいい。それに自分も甘えているのは否めない。
(いけない)
 大変よろしくない傾向だ。ただでさえ継母達によって甘やかされているというのに。自立せねば。
「それはそうと、ホントに絵はどうするの?」
 雪見は手元に視線を落とした。来るべくして来た質問だった。逡巡は一瞬、意を決して顔を上げた。
「小作品があるからそれを掲示してもらおうかと」
「あ、そうなんだ。じゃとりあえずは大丈夫ね」
 有紗はあっさりと納得した。
「いつ持ってくるの?」
「実は今朝持って来たの。ギリギリまで部室のロッカーにしまっておくつもり」
「その方がいいよ。鍵かけておけるし」
 雪見は「そうだね」と微笑した。ひきつった笑顔になってしまったのは致し方ない。どんな理由であれ、友人を疑い、嘘をついているのは心苦しかった。


 百合の実家は松戸市内の高級住宅地にある。豪邸が建ち並ぶ中でも一際大きな邸宅なので見つけるのは容易い。
 車から降りるなり、真弓は椎奈に文句を言った。
「子どもじゃないんだから、お供なんていらないわ」
「おあいにく様、お供じゃなくて見張りよ」
 正妻である椿の頼みでなければ、椎奈とてこんな面倒極まりないことに関わるつもりはなかった。
「いいこと? まずは向こうの言い分にしっかり耳を傾けるのよ」
「最後まで聞けるようなマトモな言い分ならね」
 つまり、黙っているつもりは全くないということだ。椎奈は早くも帰りたくなった。
 真弓と百合の二人に比べれば、犬と猿の方がまだ仲が良く見える。洗剤に喩えるならアルカリ性と酸性。混ぜるな危険。事情を聞くだけの簡単なお使いでさえ大惨事になりかねない。
 正門の呼び鈴を鳴らすと、すぐさま庭の奥から使用人が現れて、椎奈と真弓の二人を迎え入れる。
 通されたのは客間。どこぞの宮殿を彷彿とさせる、無駄に派手で豪奢な内装だった。これまた一目で高級とわかる紅茶一式を出されてしばらくの後、完璧に化粧をして取り繕った百合が登場した。
「突然どうされましたの?」
「白々しい」真弓は吐き捨てた「ずいぶんと派手にやらかしてくれたじゃない。まさかここまで馬鹿だったとは想定外だわ」
 初っ端から喧嘩腰。百合は小首をかしげた。
「藪から棒に一体何をおっしゃいますやら」
「立川という教師に覚えは?」
「もちろんありますわ。聞いただけですけど、雪見さんをいじめた殿方でしょう?」
「聞いただけで、会ったこともない」
 真弓は目を眇めた。
「じゃあどうして、あんたは立川が男だと知っているの?」
 百合の笑顔が凍ったのを椎奈は見た。ほんの一瞬だが、たしかに百合は顔を強張らせた。
「そんなことは調べさせれば」
「奥様がすぐさま動いたにもかかわらず? あんたは前から立川のことを知っていたのよ。そしてあいつに人前で雪見を侮辱するように言った!」
 そう仮定すれば立川が今でも栄光女子学院で教師をやっていられるのも頷ける。本来ならば、椿が容赦なく左遷か退職に追い込んでいるはずなのに。それができなかったのは、背後に百合がいることを椿が勘づいたからだ。白羽家の一員である百合が背後にいるのなら立川一人を退けても無意味。おそらく椿は百合に直接釘を刺したのだろう。
「だいたい都合が良すぎるのよね。雪見と同居している私達が揃って駆けつけられない時に事件が起きるなんて」
「何故わたくしがそんなことを」
「どうせ素知らぬ顔であんたが助けに入るつもりだったんでしょ。それで雪見に恩を着せる算段だったようだけど、残念ね。奥様にまんまと役を奪われて」
 百合にとって誤算だったのは、椿が乗り出したことだ。普段は白羽家当主の成政の正妻として多忙を極めている椿が、学校にまで乗り込んで雪見を救出するとは想像もしていなかったに違いない。
「次に雪見の絵を盗ませようとして失敗。業を煮やしたあんたは絵そのものを壊したわけ?」
「心外だわ」
 百合は不快げに眉をひそめた。
「わたくしがそんな酷いことをする女だとお思いで?」
「ええ。あんただったらやりかねない」
 酷い言い草だが前科がある以上、百合は文句を言えない。
「仮にわたくしが誰かに命じて雪見さんの絵を台無しにしたとしても、それは雪見さんのためですわ」
「やっぱりあんたが」
「落ち着きなさい。仮定の話よ」
 いきり立つ真弓を押しとどめて、椎奈は訊ねた。
「含みのある言い方だけど、どういう意味?」
「雪見さんには自覚が足りなさ過ぎます」
 澄ました顔で百合は言い放った。
「彼女は成政様の唯一の嫡子です。この白羽家をいずれは継ぐ者には、相応の振る舞いが求められます。安い挑発に乗って公衆の面前で暴力を振るうなど愚の骨頂。そんな教師なぞ白羽家の力で排除すればいいのです。モデルが欲しいのならお金を積めばいいのです。友人を作るのなら白羽家に相応しい良家の子女を、わたくし達が選べばいいのです」
「そんな無茶な、」
「何故? その方がずっと安全で雪見さんのためになりますわ。少なくとも一生懸命描いた絵をどこぞの輩に壊されるなどという事態は避けられたはずです」
 椎奈も真弓も揃って口を閉ざした。無茶理論だが絵に関していえば百合の言うことは正しい。
 良くも悪くも雪見は普通の子だ。むしろ恵まれなかった部類に入る。母親を亡くし、親戚に邪魔者扱いされて育った雪見には自尊心がほとんどない。急に白羽家の後継者として蝶よ花よと扱われても、雪見には居心地が悪いだけだ。
 それを知っているから、椿も他の継母達も極力普通の子と同じように小遣いや行動を制限したり、一般の学校に通わせたりしていた。おかげで雪見は白羽家の後継者だからと思い上がることもなく、謙虚な子に育った。真面目で問題行動はなく、クラスでも目立たないと聞いている。はたから見たら雪見が日本で屈指の大企業のトップの娘だとは、誰も思わないだろう。
「中途半端に庶民振るからこういうことになるのです。雪見さんは特別な方の子です。普通の子どもと同じにはなれないのです」
 あまりにも一般に近過ぎた。雪見は本人の性格に反して、特殊な家庭事情を抱えている。わきまえなかったがゆえに、今回の軋轢は生まれたのかもしれない。

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