『白雪姫と七人の継母』第十九話「千歳の秘密」

 人物画の構図は大きく分けて全身、腰から上、胸から上の三種類ある。
 雪見が千歳に惹かれたきっかけは彼の手なので、必然的に手を描かなくなる『胸から上』のみの構図はなくなる。残るは『全身』か『腰から上』か、だ。
 腰から上だけにして、手に焦点を当てた絵にしようと当初の雪見は思っていた。アンリ=レーマン作、かの超絶技巧のピアニスト、フランツ=リストの肖像画も腰から上を描いている。細身を強調する黒服。組んでいる腕にかかった左手の大きさと指の長さが印象的だった。やはり腰から上だ、とほぼ決めていた。
 しかし今日、立位で演奏してもらって初めて気づいたのだが、千歳は姿勢がいい。特にぴんと伸びた背筋は何ものにも挑もうとする意志さえ感じられて、大層魅力的だ。そういえば悪魔的な超絶技巧ヴァイオリニスト、ニコロ=パガニーニの肖像画に演奏中の立ち姿があったことを雪見は思い出した。彼の場合は、人並み外れた長身を描くために全身画にしたらしいが。そう考えると、全身画も悪くはない。
 しかし、だ。全身画にしてしまうと今度は手があまり注目されなくなってしまう。あちらを立てれば、こちらが立たず。
 いくつか描いたラフスケッチを前に、雪見はうんうん悩みーー結果、千歳にメッセージを送った。最後のひと押しのため、部活の見学させてもらえないか、と。つまりは千歳に早速泣きついたのだ。
 既読はすぐについたが、翌朝になっても返事はなかった。きっと忙しいのだろう。雪見は焦らず、待つことにした。キャンバス張り、勉強、夏休み限定のアルバイト探しとやるべきことはたくさんある。
 千歳から連絡があったのは放課後、これから部室に向かおうと鞄を背負った時だった。一言『四時から合奏』とだけ。
「雪見、部活ー」
「ごめん。今日は休むって伝えて」
 有紗に伝言をお願いして雪見は教室を飛び出した。隣駅なので走れば間に合う。
 帰宅する生徒の流れに乗って校門を出る。信号待ちをしていた所に車道から控え目にクラクションが鳴った。
「よう、雪見」
 助手席の窓から柚子が顔を出す。
「珍しいな。今日は部活ないのか」
「個人的な課外活動です。柚子さんはお仕事中ですか?」
 柚子の仕事は平たく言うと探偵だ。浮気調査から企業スパイまで何でもござれ。車を使っているとなると尾行中ではないのか。
「こんなところでお話ししていて大丈夫ですか?」
「んーなんか全然動かないから、今日の所はもうあきらめようかと。旦那ならともかく、愛人の浮気調査なんて阿呆臭くてやってらんないよ」
 依頼主が聞いたらまず怒りそうなことをさらりと言う。そもそも依頼内容を道端で暴露していいものなのか。
「どっか急ぐなら送ろうか」
「いえ、お気持ちだけで結構です」
 娘に気遣う余裕があるなら依頼主のことも考えてほしかった。柚子はにっこり笑顔で後部座席のドアを開けた。
「遠慮すんなって」
「仕事してください」
「本日の営業は終了しましたー」
「勝手に終わらせちゃ駄目です!」
 訴えは聞き入れられなかった。押し問答の末に雪見は後部座席に座る羽目になった。
「黎陵高校まででいいよな」
「なんで知っているんですか」
 言ってから気づく。愚問だ。考えられるのはただ一つ。
「また私に盗聴器を仕掛けたんですか」
「誤解だ。雪見には発信器以外は仕掛けていない」
「発信器で十分犯罪です」
「安全のためだ。奥様だって了承している」
 お言葉だが了承が必要なのは椿ではなく、仕掛けられてプライバシーを侵害される自分だ。
「雪見には仕掛けていないが、教室と部室には盗聴器と防犯カメラを仕掛けておいた。二十四時間録画機能付き。非常時にはすぐさま再生し証拠保全もできるってわけだ」
「いつからそんなものを……」
「入学前、成政様と奥様が学長に挨拶に行った時に同行して」
 それは頼もしい。継母の愛情に雪見は目眩がした。愛が重すぎる。

 黎陵高校前でおろしてもらった雪見は、柚子に礼を言って校門をくぐった。背中に「晩ご飯までには帰るんだぞー」という柚子の声を受けつつ走る。
 来客用のスリッパを拝借し音楽室へ急ぐ。合奏前、各々音出しの真っ最中。果たしてそこに千歳はいた。指揮台前のコンマスの定位置に腰掛け、背後の席にの後輩と思しき男子生徒と楽譜を片手に何やら相談しているーーと、後輩の方が雪見に気付いて片手を上げた。それで気づいた千歳が雪見に目を向け、次いで顎で部屋の隅にあるパイプイスを示した。そこで見学しろと言いたいらしい。雪見は会釈してから、隅に移動してパイプイスに腰掛けた。先日より後ろで千歳まで距離がある。スケッチするのに適当な場所とは言い難いが、ワガママを言っている場合でもない。
 鞄からスケッチブックを取り出し、鉛筆を準備する。白紙のページを広げていたら陰が差した。見上げると先ほど千歳と話していた男子生徒がこちらを見下ろしていた。
「あ……今日は、突然すみま」
「気にしなくていいから。どうせあの人が突然連絡してきたんだろ?」
 男子生徒は「俺、二年の綾瀬玲一。専攻はヴァイオリン」と端的に自己紹介すると、床に置いていた雪見の鞄を持ち上げた。
「もっと近くで描けば? せっかくここまで来たんだし」
「でも、お邪魔ではないでしょうか」
「邪魔ねえ……」玲一は小さく笑った「邪魔だったら連絡しないって。だいたい今、俺に行ってこいって言ったのあの人だぜ?」
 玲一に押されるような格好で移動して、雪見は前回とほぼ同じ位置、千歳の真隣に座った。調弦していた千歳が雪見を一瞥し「早かったな」と呟いた。
「母に送ってもらいまして」
「……だと思った」
「今日はありがとうございます。コレできっちり構図決めますので」
 調弦を終えた千歳は楽譜をめくった。黒いヴァイオリンを構えて音出しを始める。
「練習の邪魔だけはすんなよ」
 雪見が頷いたところで、顧問兼指揮者の神崎凛子がやってきた。喧騒のような音が一斉にひいていく。挨拶もそこそこに凛子は指揮棒を上げた。途端、音楽室の空気が張り詰める。
 雪見は鉛筆を握り締めた。これだ。演奏が始まる直前の、一瞬の沈黙と緊迫感。指揮棒を見据え、全神経を集中させる千歳の横顔を、雪見は描きとめるべく鉛筆を滑らせた。気分がのっている時は魔法のように鉛筆が動く。あっという間に輪郭が出来て、絵のイメージが浮かび上がった。
「コレです!」
 ラフスケッチを描きあげた瞬間に雪見は立ち上がった。演奏中の横顔。何としても指は描きたいのでキャンバスは横長にしようと決める。
 ともすればスケッチブックを掲げて小躍りしそうな雪見に、底冷えのするような声が掛かった。
「おい」
 眉間に深い皺を寄せた千歳がこちらを向いていた。よくよく周囲を見渡せば、千歳だけでなく他の部員の方々も指揮の凛子もーー全員が呆気に取られた顔で雪見を見ていた。
 見学者が突然イスから立ち上がり「コレです!」などと叫んでスケッチブックを掲げたりしたら、この反応は至極当然と言えよう。
「邪魔すんなっつったよな?」
「あ……すみま、せん」
 蚊の鳴くような声で謝罪し、雪見はイスに座り直した。千歳が盛大な舌打ちをした。
「威嚇するなコンマス」指揮者の凛子がたしなめた「それよりも出だしから走るのをやめなさい。速くなり過ぎて再現部で振り落とされている」
「だんだん速くすんじゃないんすか」
「それにしたって限度がある」
 凛子は腕を組んだ。
「いっそのこと最初はべったり弾くか」
 指揮棒で台を軽く叩いて拍子を取る。ずいぶんとゆっくりだ。千歳だけでなく管楽器隊までもが顔を曇らせた。
「弦楽器はともかく、管楽器の息が続かない恐れがあるかと」
 代表する形で発言したのは千歳の隣に座っている部長ーーたしか名前は大神響だったか。先日見学させてもらう前に自己紹介した。
「だから最初のフレーズだけ。あとは徐々に早める。緩急を明確にしたい」
 響と千歳が顔を見合わせる。アイコンタクトは一瞬で終わった。
「やってみよう」
 響の一言で方針が定まった。

 文化祭で発表予定の三曲とアンコール一曲、計四曲を弾いて、合奏練習は終わった。時間にして約一時間半。比較的早く終わるのは、この後に個人練習を想定しているからだろう。解散しても音楽室には部員が大勢残ってはそれぞれ楽譜と睨めっこしていた。
 千歳は部長の響と顧問の三人で打ち合わせとやらで席を外している。愛用のヴァイオリンをケースに置いたままで。後輩の玲一がそばで目を光らせてはいるが、眺める分には全く問題はない。抜身の黒いヴァイオリンーーつまりはスケッチし放題。絶好のチャンスに雪見は目を輝かせた。
 ヴァイオリンが置かれたイスの前を陣取り、鉛筆を走らせる。鼻歌混じりにヴァイオリンを描いていく。
「そんなに楽しい?」
「はい。とても楽しいです」
 雪見は玲一を見上げた。
「ヴァイオリンは弾くのはもちろん、飾るだけでも立派な芸術品ですから」
 玲一は肩を竦めた。いまいち釈然としていないようだ。
「なあ、そういうのってさ、写メ撮ってそれを見ながら描けないのか?」
 質問の意図をはかりかねた。きょとんとした雪見に何を思ったのか玲一は言い募る。
「別に邪魔とかそういうワケじゃないけど、あの人大人しくするモデルやるような人じゃないだろ? あんたも大変だし、何枚か写メ撮ってゆっくり描いた方が楽なんじゃないのか」 
「写真と実際に見て描くのではかなり違いますよ」
 ヴァイオリン一挺にしても木目の細かな色合い、質感、匂いは写真では読み取れない。
「オーケストラで喩えれば、録音した演奏とコンサートホールで聴く演奏くらい違います」
「そういうものか」
「そういうものです」
 深く頷いたところで、雪見はスケッチを再開した。一言で黒と言っても角度によってニスの光沢が変わり、様々な色合いを見せる。磨かれた表面は艶やかで黒真珠を彷彿とさせる。惚れ惚れとするくらい美しいヴァイオリンだった。
「腰のくびれがたまりませんねえ」
「いや、ヴァイオリンはほとんどそういう形だから」
 などと会話しつつスケッチしていたヴァイオリンが、不意に取り上げられた。
「勝手に触んな」
 いつの間にか戻っていた千歳が不機嫌顔でヴァイオリンを抱える。反射的に「すみません」と謝ろうとした雪見を制して、玲一が呆れたように反論した。
「触ってません。見ていただけです」
「屁理屈こねんな」
「減るもんじゃあるまいし」
「俺の気が削がれんだよ」
「ーーああ、そういうことですか」
 玲一の口が弧を描く。意地の悪い笑みだった。
「安心してください。背板は見てませんから」
「バッカてめえ余計なこと喋んじゃねェッ!」
 掴みかかりそうな剣幕で千歳は怒鳴った。ヴァイオリンを抱えていなければ本当に殴っていたかもしれない。
「背板、ですか?」
 雪見は首をかしげた。真弓も同じことを言っていたことを思い出した。
「おめーには関係ねェことだ」
「恥ずかしがってないで見せれば済むことでしょう。絵を描かれる内にどうせバレるんですから」
「てめェ、それ以上言ったらマジでブン殴る!」
 雪見が思わず身を竦めるほど威嚇されても、当の玲一は涼しい顔だ。煽るだけ煽ってさっさと自分のヴァイオリンケースを背負った。
「じゃ、レッスン室の予約があるんで俺はこの辺で」
「おいコラ待てや」
「ちゃんと駅まで送った方がいいですよ。一応先輩なんですから」
「ウッゼ! てめェさっきから何なんだ!」
 怒られようがどこ吹く風。玲一はひらひらと手を振って音楽室を後にする。
 残されたのは個人練習に勤しむ部員と、怒り心頭に発している千歳と取り残された雪見。見捨てられた気分になるのも致し方ない。救いを求めて周囲を見渡すも、誰もが目を逸らして触らぬ神に祟りなし状態。みんな薄情だ。
 こうなったら逃げるしかない。雪見はゆっくりと後ずさった。
「私も、そろそろ……おいとま、しまー……す」
 我ながら蚊の鳴くような情けない声音だが、気にしている場合でもない。それでもしっかり聞こえてはいたらしい。振り返った千歳に睨みつけられ、雪見の足元が凍りつく。
「……み、見てませんよ?」
「あ?」
「ヴァイオリンの裏なんて見ていないです!」
 雪見は必死で無実を主張した。見たくないと言えば嘘になる。しかし好奇心よりも身の安全が第一だった。
「たしかに母からフリーデブルクさんの話を聞いて調べたりとかはしましたけど、秋本さんのヴァイオリンについては何もーー本当に、何も知りません! 綾瀬さんも私も触っていませ」
「ッセーな! わかってら!」
 わかっていなさそうだから弁明しているのに怒鳴られた。理不尽だ。そう思いながらも雪見は「すみません」と謝った。
「あー面倒くせェ」
 ぼやきながら千歳はヴァイオリンをケースにしまった。言葉とは裏腹に扱う手は丁寧で、大切にしているのだと伺えた。ケースを担いで鞄を持った千歳はぶっきらぼうに言った。
「電車?」
「えっ……」
「だから! 迎えは来ねェのかって聞いてんだよ」
「はいっ。し、仕事があるので」
 千歳は空いた方の手で雪見のサブバッグを持った。そのまま音楽室を出て、昇降口へ歩いて行ってしまう千歳を、雪見は慌てて追いかけた。
「自分で持ちます……っ!」
「遅ェからいい」
 そこでようやく、千歳が自分を駅まで送るつもりなのだと雪見は気づいた。


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