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すべからく『愛』を謳え 第八話 『連鎖』

すべからく『愛』を謳え  第八話『連鎖』

常闇
  さおりは暗がりの中で目を覚ました。
  ここはどこ?  
  何も見えない状況の中で、彼女は自分の居場所を探す。少しずつ覚醒する意識と感覚。鮮明になるにつれて、四肢を駆け巡る、鈍く鋭い痛み。特に右脚は痛覚を飛び越えて、もはや感覚が麻痺しようとさえしていた。合わせて背中に伸し掛る大量の瓦礫と木片。息をしようとすると、圧迫された肺が悲鳴をあげる。まるで押しても戻らない風船のように、違う所から空気が漏れ出ていくかの如く、彼女は徐々に押し潰されていくのだった。

『おーい!  聞こえるか!』
  遠くに聞こえる誰何の声。声のする方に視線を向けると、微かな光が彼女の視界に飛び込んできた。
「た、すけ…て…」
  声を出すのでさえ、身体中に鈍い痛みが駆け巡る。
  しかし、このままではきっと自分は死んでしまう。      誰に言われるまでもなく、その激痛と息苦しさに、彼女は初めて命の危険を感じるのだった。

『則夫!  美智子!  どこ?  聞こえたら返事して!  お願い!』
  泣き叫ぶ女性の声が、さおりの耳にこだまする。その声はさおりにとっていちばん身近で、親しみのある声。
「ばあちゃん」『お母さん』
  彼女の声に重なる誰かの声。
  そして彼女の中に流れ込む、誰かの記憶。


「則夫!  則夫!」
  「お、お母さん!!」
   則夫の目の前には、なぎ倒された木片や瓦礫、ガラスの破片でいっぱいだった。
  しかし、彼は手を伸ばさずにいられなかった。微かな光の中に響く声は、彼がいちばん求め続けた声。
  同じ屋根の下に暮らしているのに、一切会わせて貰えず、暑くむせ返る暗い部屋の中で母を想い、彼は孤独に咽び泣いた。
  
  きっといつか迎えに来てくれる。
  そう信じて止まなかったその声が、今、彼の耳に届いた。
   お母さんが助けてくれる!
    彼は微かな呻き声をあげなから、その声へと手を伸ばし、身をよじる。しかし、柱を無くした屋根と梁は彼に重くのしかかり、前へ進むのはおろか、身動きさえままならなかった。四肢に力を入れれば激痛が走り、力を入れた分息苦しさが増し、焼け付くような焦燥感が全身を駆け巡る。

「たす……けて…..」

  幾度となく声にならない声で、彼は訴えた。
   しかし、その声は光の隙間から外に漏れることは叶わなかった。

「また来たぞ!」

  誰かの叫び声と共に、また大地が揺れた。それは前後左右上下、無秩序に大地を揺るがし、破壊の限りを尽くす。併せて則夫の背中や頭には、より大量の木片や瓦礫が落下し、彼の動きを完全に封じ込んだ。


「則夫!  美智子!」
  悲痛に泣き叫ぶ母、澄江の声。
 それだけが今、彼に与えられた希望の光。
  どんなに埋めつくされても、彼は彼女に向かってその手を伸ばす。

「これじゃ拉致があかん! 澄江さん、美智子ちゃんと則夫、両方は助けられん! どっちかにしてくれ!」
  男たちはもはや投げやりに言い放つ。
  澄江は答えに窮した。
「澄江さん、分かってるでしょうね!」
 その場に居合わせたであろう、初老の女性の声が厳しく澄江に詰め寄る。
  則夫はその声が大嫌いだった。彼を暗闇に閉じ込めた張本人。そして母、澄江をずっといじめる諸悪の根源。あの女だけは絶対に許せない!
   激痛と命を落としかねない恐怖の中でさえ、則夫のあの女への憎しみは揺らぐ事はなかった。
「澄江さん!  どうするで?」
  男たちの怒号に急かされ、澄江は口を開く。
「助けて!  お母さん!」
  則夫は、彼女の声に期待を込め、更に手を伸ばす。



「あ、あの……み、美智子を助けてください!」


  則夫は耳を疑った。
『お母さん!  なんで?  どうして?  僕の事、嫌いになったの?  ねぇ! 助けて!  お願い!』
  それ以降も泣き叫ぶ澄江の声に、則夫は心の中で必死に訴えた。しかし、その声は澄江には届く事はなかった。
  そして、またしても余震がその場を襲い、美智子を助け出した澄江たちは、彼を残して高台へと避難を開始するのだった。

『お母さん!  僕!  死にたくないよ!』

  その思いも虚しく、余震の影響で発生した激しい津波が瓦礫諸共、則夫を押し流していくのだった…





「……!」
「さおり!  大丈夫か?」
   さおりは自室で、息を吹き返すかのようにして、目を覚ました。
「叔父さん、私……」
「えらくびっくりしたよ!  急に倒れ込むもんで!  やけど良かった!  目を覚ましてくれて……」
   叔父は狼狽した顔で彼女の顔を覗き込んでいた。その真っ青な表情を見た時、さおりの中で
『ざまあみろ!』
  という感情が湧いて出た。それを悟られないように、彼女は作り笑いで誤魔化した。
  起き上がると同時に彼女は、身体中に鈍い痛みが残っているのを思い出した。
「痛っ!」
  彼女は右脚の痛みに悶絶した。
 「大丈夫か?」
「う、うん……」
  複雑な気持ちのまま、さおりはうなづいた。
「さおりちゃん、おばあちゃんは明後日には迎えに来るから、準備しててね」
  伸子は、さおりが倒れていた事などお構い無しに、勝手に話を進めていく。
「おばあちゃん、うちで楽しく暮らしましょうね」
   歯の浮くような心にもない言葉で、伸子は澄江に擦り寄る。当の澄江は浮かない顔をして、さおりの顔を見詰める。
「お母さん…….」
  澄江の顔を見るなり、さおりは心の中に篭っていた言葉が突いて出た。
「どうした?  さおり」
「あ、いや……」
  先程までの『記憶』の延長線上で、さおりは澄江の顔を見るだけで泣き出しそうだった。
   そんなさおりを前にして、澄江は彼女から目を逸らした。その表情は『則夫』を前にするかのように、『怯え』が隠しきれていなかった。澄江のその不安定な面持ちに、さおりは今にでも駆けつけて抱き締めたい気持ちを必死に堪えた。

  そしてその翌日。
 澄江は、彼女の意志とは関係なく、叔父の家へと引き取られていった。
  




  一週間後。
  さおりはぽっかりと心に穴が空いていた。
  今まで張り詰めていた緊張の糸が一気に緩まり、あれだけ不快に感じていた紙おむつの履き替えや、面倒だった食事の用意も、それはそれで物足りなく感じ、狭苦しい団地の部屋も、今はがらんとして、彼女には無駄に広すぎた。
    食事も自分の為だけに作るのは億劫で、夕飯は廃棄で持ち帰った弁当ばかりが続いていた。油の回った唐揚げや、パサパサになったスパゲティ、少し固くなりかけたご飯。このままこんな食事を続けていたら、瞬く間に太ってしまうだろう。そうは思っても、そんな事を気にする事さえ面倒で馬鹿らしかった。
   
   今更になって手にした自由は、色もカタチもなく不鮮明。自分自身が何をどうしたいのか、それさえも見えて来なかった。
   一ヶ月前であれば、少しやわめにご飯を炊き、後はレンジで温めるだけでいいように、おかずを作り置きしたり、月に一度の贅沢で買うケーキに、澄江と一緒に舌鼓を打っていたはず。
   澄江はフルーツいっぱいのショートケーキや、ロールケーキがお気に入りだった。澄江はそもそもの育ちが良かったので、そこそこな値段のものでなければ喜ばなかった。故に月に一度だけ。そう言い聞かせていたが、毎日のようにケーキ買って来いと、出勤前には口癖のように言っていたっけ。

   つい数日前の事なのに、まるで遥か昔の事のように思えてしまう。
  さおりは澄江の部屋で横になり、食べこぼしで汚れた絨毯に指を這わせて、彼女との過去に思いを馳せる。

今頃澄江はどうしてるんだろう?  眠れないと言って、睡眠導入剤をせびっていないだろうか?  はたまた、『則夫』が彼女の前に現れていないだろうか?

  ツンと鼻を突くアンモニアの香り。仕事から帰って来た際に、その匂いが鼻腔を刺激する度に、苛立っていたが、それも微笑ましい過去。

  明日も朝から仕事。
  以前は行きたくないという嫌悪感が強かったが、今となってはただただ面倒なだけ。
  ここ数日で『頑張る』『耐える』という気概が、一気に途絶えてしまった。


「お母さん…….」
  彼女の中でわだかまっていた気持ちが、言葉として吹き出す。
「お母さん?」
  自分で吐き出しておきながら、その不自然さに口元をゆがめる。

   彼女は目を瞑り、微睡みにその身を委ねる。その閉じられたた瞼からは、ゆっくりと雫が流れ落ちた。








「お母さん!」
  さおりは自分の叫び声で目を覚ました。
  身体中が汗でびしょ濡れになり、わずかばかりの異臭さえ漂っていた。そして口で息をしていたらしく、口内は渇ききり、微かに残った唾液は真っ白に糸を引いていた。

 さおりは、昨日に見た則夫の過去の記憶に苛まれ、目を覚ました。
   澄江に厳しく当たる義母の顔が伸子と重なって、無性に澄江が心配になってきた。
   よもや伸子に不当な扱いを受けていないだろうか?
   ちゃんとごはんを食べさせて貰っているだろうか?
   ちゃんと薬を飲ませて貰っているだろうか?
   今まで彼女が気を配っていた事がおざなりにされていないか、急激に心配になった。

   さおりは台所で水を汲むと、それを一気に飲み干し、一度深呼吸をついた。押し寄せる不安に水を差し、息を整える。

『今日の仕事帰りに、叔父さんちに寄って帰ろう』
  そう自分に言い聞かせ、無理にでも心のスイッチを切り替える。
「きっと大丈夫」
  今日一日、その言葉が彼女の支え。
  口にする事で言霊となり、現実へとなっていく。
  時計の針は朝の五時半を回ろうとしていた。
  今日も暑く、長い一日になりそうだ。





葛西澄江
    澄江はカビの臭いのする屋根裏部屋にいた。
   彼女の意向とは関係なく、暗く、暑くて狭い、この部屋へと彼女は閉じ込められた。換気出来る窓は天窓しかなく、一度開けようとしたが、長い事閉まっていたせいか、彼女の力ではびくともしなかった。
    目の前には古めかしい扇風機が置いてあるが、スイッチの接触が悪く、強風しか作動しない。
   そして乱雑に置かれた紙おむつの山と、それを捨てるためのゴミ袋。トイレに行くには屋根裏部屋から急勾配の階段を降りなければならない。彼女の足腰ではそれは至難の業。便意が催した際は、致し方なく紙おむつに頼らざるを得なかった。
   それ以外にこの部屋にあるものと言えば、ぺたんこになった敷布団と、汗の臭いが染み付いたシーツ、これまたぺたんこになりつつある枕だけだった。
   テレビも無いので、お昼にやっていた外国のドラマも観ることが出来なくなった。
   三度の食事はちゃんと出されるが、どれもこれも脂が多く、全部たいらげる事が出来なかった。
   週一の訪問看護の女の子も来なくなり、退屈極まりない。しかし、彼女は一日の半分は意識が酩酊していた。本人としても『認知症』という自覚はあり、周囲には多大な迷惑を掛けている、そう感じていた。しかし、それを上手く言語化出来なくなり、併せて自分の『気持ち』の表現もままならなくなった。
  されど、さおりには償い切れないほどの感謝と、申し訳のなさでいっぱいだった。

  だからこそ、この劣悪な状況を、彼女は敢えて受け入れた。
   本音を言えば今まで通り、さおりとずっと一緒に居たかった。しかし、さおりにも人生がある。それに澄江自体はもう先はそこまで長くは無いだろう。今まで苦労をさせた分、少しでも、一刻も早く、さおりを自由にしてやりたかった。何も出来ない廃人と化す自分の為に、人生を棒に振らせたく無かった。最後くらい祖母として、ずっと長年苦楽を共にしたパートナーとして、さおりを幸せにしてやりたい。
  そしてこの現在(いま)が、彼女がさおりにしてやれる、最後の事。
   額に流れる汗をシーツで拭い、少しでも『自分』であり続けようと、彼女はむせかえる『暑さ』を敢えて受け入れる。

  そして彼女はある少年の影に怯えていた。
  『則夫』
  その名前を耳にしたり、口にするだけで、胸がつかえ、息が苦しくなり、抱えていた事実に彼女は耐えられなくなる。およそ60年近く、則夫の存在は彼女を責め、苦しませてきた。
   当時の自分がもっと毅然として強く居れば、その名前に脅かされずに済んだはず。たったひとりの子供の命も守れなかった、最低の母親。誰がなんと言おうとも、子供を守る事は親としての勤め。それを彼女は自ら放棄した。やむを得なかったというのはただの言い訳で、彼女は我が子を見殺しにしたのだ。
   恨まれても呪われてもおかしくはない。それ相応の過ちを冒したのだから。
  彼女は則夫の気持ちが鎮まるの事をひたすらに祈ったが、頻出する彼の姿に、その想いは通じてなかった事を痛感する。

  きっと彼は自分を連れて行くために現れているはず。さおりの母、美智子が火事で先立った際にも、彼は彼女の前に頻出していた。自分をさておき、ひとり助かった腹違いの妹を、きっとあの子は手にかけた。
   そして今度はきっと自分の番。自分だけで済めばいいが、ややもすると、さおりにまでその火の粉が降って来るかも知れない。
     現にあの日、澄江と美智子は、結果的とはいえ則夫を見殺しにした。
   そして不慮の火災で美智子はその命を落とす。
   それでも尚、則夫は澄江の元へ現れる。
   如何に彼が澄江に対して憎しみを抱いているか、想像に難くない。しかし、彼女にはずっとずっと平謝りと、念仏を唱える事しか出来なかった。
   本当に駄目な母親だ。
   愛していた我が子に怯える、もはや親、否、人として最低だ。だからこそ、澄江が今置かれている状況も、きっと当然の報いなのだ……


亡者
  「ねえ、あんた!  いつになったらお義母さんに遺言書書かせるつもりなの?」
  子供二人が学校へ行った途端、伸子は母親の仮面を剥ぎ、本性を剥き出しにする。
   今から仕事だと言うのに、二人になればすぐにこの話になる。なんとげんきんな女だ。
    さおりの叔父、健二郎は、過去に見初めた女でありながら、妻のその狡猾さにはほとほと呆れ果てていた。
「その話はまだ先の話だ」
  威厳を込めて言い返す。
「そんな悠長な事言ってる場合?  家のローンもまだ残ってるし、和樹と春馬の入学資金も、目の前まで迫ってんのよ?  年金の 通帳の暗証番号だって、まだ聞き出してないんでしよ?  ほんとにグズで役たたず!」
  健二郎の威厳など何処吹く風?  と言わんばかりに、それ以上の悪態で返す伸子。
  彼女は思った事をずけずけと言い放つ。以前はその豪傑さに憧れさえ抱いたが、今やそれはただの『毒』と化した。彼女の発する言葉は、日々、健二郎の胸の内を破壊し、底知れぬ貪欲の渦中へと引きずり込む。
   しかし、金が必要である事は確かだった。
   健二郎の安月給では、毎月の支払いと食費だけで精一杯。そこに子供達の受験も重なれば、数百万単位のまとまった金が必要だ。どう計算しても、現在の収入だけでは底をついてしまう。
    そう考えると、伸子の言動も分からなくはない。
    目の前に大きな金がぶら下がっているのであれば、それに手を伸ばす権利は彼らにもあるはず。

   そう、澄江は彼らには内緒でこっそりと金を貯め込んでいたのだ。
    その額はなんと一千万円。

   先日、さおりから呼ばれて部屋を片付けていた最中に、伸子がその通帳を部屋の中から見つけ出したのだ。伸子はそれをさおりには黙って、自分の鞄に押し込み、帰ってきた時点で、健二郎に出して見せた。
   それは後生大事に袱紗に包まれ、長い事触れられていなかったようだ。きっと澄江はその通帳を隠し持っていたのか、或いは認知症のせいでその存在を忘れてしまったのかのどちらかだろう。最終の記帳が役八年前。このまま見つからないままであれば、下手すると休眠預金になってしまうところだった。慌てて健二郎と伸子は記帳をすると、その中身は変わらぬまま残っていた。しかし、暗証番号も分からない、下手すると銀行側が澄江が『認知症』である事に勘づいて、口座を凍結する恐れもある。万が一後見制度で口座を解凍したとしても、好き勝手には入出金は出来ない。
   そこで伸子が考え出したのは、澄江を引き取ってその預金を相続する事だった。
  我が母親を前に、健二郎はその考えに躊躇したが、背に腹はかえられないのが実情。さおりには悪いとは思ったが、彼女を自由にするという名目を念頭に置けば、それは対価として受け止めて良いのだろう。健二郎は無理やり自分に、そう言い聞かせた。
   そして毎日のように無心される遺言書の話。遺言書さえあれば、何も恐れる事はない。そう考える伸子は、常に臨戦態勢で健二郎に発破をかける。澄江も八十五を越え、認知症も重なれば足腰も弱り、予後はそこまでは長くないはず。それを期待しつつ、しかしそれまでに相続する手筈を終わらせておかなければならない。
  それが『現実』。
  情や思いだけでは生きては行けない。
  ましてや自分は澄江の列記とした息子だ。澄江の財産を受け継ぐに相応しい肉親だ。
   薄情と誰かに罵られても構わない。
   彼らにも『生活』があるのだ。そこだけは譲れない事実だ。

   満員電車の中で、浅くため息を漏らしながら、健二郎はそう、自分を鼓舞するのだった。
   
   電車に揺られながら、目の前の窓に健二郎は視線を落とす。ちょうどトンネルに突入し、窓の外は僅かの間、暗闇に落ちる。何気なくそれを目にする健二郎だったが、その窓の外に誰かの視線を感じた。それは暗闇の中から少しずつ浮かび上がって、そして鮮明になり、彼の目に焼き付いた。
「……」
  健二郎は戦慄した。
  窓の外には、憤怒の形相で彼を睨みつける少年の顔があった。
『則夫さん……』
  健二郎の頭の中をその名前がよぎった……








   夕方十七時過ぎ。
   伸子はスーパーの見切り品で買ってきた酢豚と、根菜サラダをそれとなく皿に盛り付け、炊飯器の底に残った米を茶碗に撫で付けて、屋根裏部屋の澄江に届ける。
   相変わらず鼻を突く屎尿の臭い。それに眉根を捻じ曲げつつも、
「お義母さん、ご飯ですよ!  しっかり食べて、元気になってくださいね!」
   猫なで声で、さも世話を焼いてる風に 、優しい口調で語りかけりる。
  そして天窓を開け、扇風機を回す。
「お義母さん、お暑いでしょうに、扇風機は遠慮なく使ってくださいね」
  伸子は臭いと暑さに、鼻が曲がりそうだった。天窓からは乾いた風が流れ込み、それを扇風機が部屋中に拡散させる。それで幾分かはマシにはなる。そして使用済の紙おむつでいっぱいになったゴミ袋を回収して、消臭スプレーを撒き、芳香剤を数箇所に並べる。
   それをやり遂げることで、義母の介護に献身的な嫁であるという自分を、伸子は確信するのだった。
「伸子さん、ありがとう」
  暑さに体力を奪われ、澄江は力なく言葉だけで感謝を述べる。そしてゆっくりと起き上がり、おぼつかない手で箸を取る。脂でギトギトになった酢豚を口に運ぶが、肉が硬いようで、上手く噛みちぎれないようだった。
    伸子はそれを見て見ぬふりして、階下の自分達の部屋へと降りて行った。

「ああ!  ほんとに嫌!  いつまでこんな生活続くのかしら?  早くくだばってくれたらいいのに!」
   たったー週間程度の同居なのに、さもずっと続けて来たかのような愚痴を伸子は零す。とはいえ、遺言書が出来ていない以上は死なれては困る。それを考えると決まってイライラが募る。伸子は憂さを晴らすかのように冷蔵庫に駆け込んで、缶ビールを煽った。
   エアコンの効いた部屋で、キンキンに冷えた食前のビールは格別だ。
「あああ!  生き返る!」
  伸子は勢い余って、もう一本を冷蔵庫から取り出し、プルタップを開ける。たったの二本だ。いつも頑張っている自分への、ささやかなご褒美だ。そう思いながら、さらに彼女はビールを煽るのだった。

  彼女が結果的に三本飲み終えたその時、インターホンが鳴り響いた。
「誰よ〜!」
  迷惑そうに玄関口へと走る。
  玄関の磨りガラスの引き戸の向こうには、うっすらと見える少年の姿があった。
『誰?』
  訝しく思いながら、彼女は玄関を開ける。
  しかし、開けたそこには誰も立っていなかった。
「あれ?」
  周りを見渡し、首を傾げる。
「私、酔っ払った?」
  一人笑いながら、引き戸を閉めようとしたその瞬間、彼女の視線の端に、またもやうっすらと少年の姿が浮かび上がった。伸子はそれを追うように玄関を飛び出た。そして、彼女が動く度にその姿はそのまた端に移動し、伸子を誘導するかのように、外へと引っ張り出す。そして彼女自身も、それに釣られて玄関を開けたまま、家を飛び出した。




  さおりは仕事が終わると、慌てふためくようにして、職場を飛び出した。
  今日一日、やはり澄江が気になって仕方がなかった。休憩中に、今日立ち寄る旨に電話を掛けるも、叔父も、自宅の伸子さえその電話を取らなかった。 

「きっと大丈夫」
  そう言い聞かせるが、今日のさおりは聞き分けがなかった。ぞんざいに扱われている澄江の姿が、何度も何度も頭をよぎり、いてもたってもいられない。
   仕事が終わると、慌てて自宅とは反対方向のバスに乗って、叔父の自宅へと急ぐのだった。


バスに揺られること十五分程度。最寄りのバス停に彼女は降り立った。慌てて再度電話を掛けるも、やはり二人とも電話に出ない。
「ちょっと!  どうなってるの?」
  苛立ちを顕にしながから、彼女は叔父の自宅へと走っていった。


「さおりでーす……叔父さん……伸子さん、居ませんかー?  入りますよー」

   叔父宅にたどり着いたさおりは、焦る気持ちを抑えて、一先ずインターホンを押す。
   しかし誰も出て来ない。部屋の電気も点いていて、エアコンの室外機も回っている音がするので、少なくとも誰か居るはずだ。
   さおりは玄関の引き戸に手を掛ける
『開いてる?』
  さおりは躊躇しつつも、焦る気持ちを抑えきれずに部屋の中へと入っていった。

  部屋の中はエアコンがガンガンと炊かれ、真夏とはいえ寒いくらいに冷えきっていた。
「ばあちゃん……さおりです……どこに居るの?」
   一階と二階をくまなく探すが、誰一人居ない。家族みんなで食事にでも行ってるのだろうか?  
   しかし、どこにも澄江の部屋らしき場所が無いのも、不思議な話。勝手口には紙おむつをまとめたゴミ袋があったというのに、それの出処が全く見つからなかった。せめて澄江がどんなふうに受け入れられているのか、それだけでも確かめたかった。
   ぐるぐると何度も一階と二階を徘徊し続けるさおり。再度二階に上がって来た瞬間、天井を誰かが叩く音が聞こえた。そして、その音を追って行くと、トイレの斜向かいにあるドアを見つける。
「ばあちゃん!」
  さおりは慌ててそのドアを開いた。
  ドアを開けるとすぐに、急勾配の階段が現れた。そして先程までの冷え込みは嘘かのように、むせかえるような熱気と、嗅ぎ慣れた鼻を突くアンモニアの臭いが、彼女を出迎えた。
「ばあちゃん!」
  さおりはその階段を駆け上った。徐々に聞こえる風の音と、カタカタと回る扇風機の音。
  さおりは階段を駆け上がると、目の前のその光景に我が目を疑った。そして、叫んだ、。
「ばあちゃん!大丈夫?」





つづく





   


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