イコン的コミュニケーション

・・・それはさておき、ここで重要なのは、今述べてきた一次過程の特性と、イコンだけに基づく動物コミュニケーションの特性とが必然的に重なり合うという点である。芸術家も、夢みる人も、ヒト以外の哺乳類・鳥類も。みな同じ規律のもとでコミュニケーションを行なっているのである。(昆虫のコミュニケーションは、また別のカテゴリーに属するようだ。)

イコン的コミュニケーションには時制もなければ、単純な(単に“not”をつけるような)否定も「法」(直接法・命令法・仮定法等の違い)や「態」(能動・受動等)を示す指標もない。

単純な否定が存在しないという事実は特に興味深い。この場合、動物は、言っていることの反対のことを意味しているのだという命題を伝えるために、意味していることと反対のことを言う状況に追いやられるわけだ。

二匹の犬が近寄って、「闘わない」というメッセージを交換する必要にせまられたとする。ところが、イコンによって「闘い」に言及するには、牙を見せるほかない。このとき彼らは、提示された「闘い」が暗に模索段階のものであることを了解する必要がある。そこで彼らは、牙を見せられたことの意味を探っていくことを始める。一応はけんかを始めてみて、その上でどちらも相手を殺傷する意志のないことを知り、その後に、親しくなるのであれば親しくなるというやり方である。

’アンダマン島の部族が他の部族の友好関係を結ぶときの儀礼をこれと比較すると面白い。また夢や芸術や神話で、皮肉など発言の意味が裏返しになるケースにも、ユーモアが起こるケースにも、同様の問題が絡んでくるはずである。

一般に動物は、自分と他者の、及び自分と外界の関係について語るが、いずれの場合も、それが何と何と関係であるかを明かにする必要はない。動物Aは、自分とBとの関係をBに語り、自分とCとの関係をCに語ればいいのであって、自分とBとの関係をCに語る必要はない。その関係で結ばれる両者は、つねに目で見える形でそこにおり、そこで取り交わされるのは、つねに行動の一部(いわゆる“意志表示のしぐさ”)をもって行動の全体を差し示すというタイプのイコン的メッセージなのである。ミルクを欲しがるネコは、(ミルクがその場になければ)欲しいのがミルクであると特定することができない。ネコはいわば「ママ、ママ」と泣いて依存のテーマを持ち出すだけだ。そこから欲しいのがミルクであることを推察する役目が飼い主に課せられてくるわけである。

以上の考察は悉く、一次過程で起こる思考とその思考の他者への伝達行動が、言語などの意識的な作用よりも進化の前段階に位置することを示している。そしてこのことは、精神の経済的・動力学的構造の全体に関わってくる。サミュエル・バトラーは――おそらく彼が最初だろう――われわれがいちばんよく知っているのは、われわれがいちばん意識していないことだと指摘した。これは、週刊形成のプロセスが、より無意識的でより太古的なレベルへ地が沈んでいくプロセスだけではない。もはや意識する必要のないほど慣れ親しんだ事柄も含まれるのだ。“身についた”ことは、意識の手を離れ、そのことで、意識の経済的な活用が可能になる。芸術家が「スキル」をみせるとき、彼は自分の無意識に沈めた事柄に関するメッセージを伝えているのである。(ただし、それを無意識からのメッセージというのは適当ではない。)

問題はしかし、それほど単純ではない。無意識レベルに沈めたほうが得な知もあれば、表面に残しておかなくはならない知もある。相対的に言って、外界の変化にかかわらず真であり続ける知は沈めてしまってかまわないが、場に応じて変えていかなくてはならない行動の制御権は確保しておかなければならない。「シマウマは獲物である」という命題はライオンの無意識に沈めて構わないが、個々の状況でシマウマを相手にしたときの個々の動きは、その場特有の知性やそのシマウマ特有の逃走戦術に合わせて修正できるようになっていなくてはならない。

恒久的に真であり続ける関係性についての一般事項は無意識領域に押しやり、個別例の実際的処理にかかわる事項は意識領域に留める、という答えがシステムの経済的要請から出てくるのである。

思考の前提は沈め、個々の結論は意識の上に残しておくのが得策である。しかし、この「沈め」は、経済的であるといっても、やはり「手放すこと」の代価を払って得られるものだ。沈める先が、隠喩とイコンの演算規則がとりしきるレベルである以上、そこからはじき出されてきた答えがどのように導き出されたのか、もはや知ることはむずかしい。逆に言うと、ある特定の言明とその比喩的表現とに共通の部分は、無意識に沈めるべき一般性を有している、ということである。

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学」

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