質とセールス

現在、商品化を前提にしていない作品ってのは世の中にありえないわけ。と、商品になったからには、最終的な基準はセールスしかないのね。作品にはいろんな基準があるけれど、商品にはセールスしかない。商品の良し悪しは全部セールスが決めるんだ。だから、歌謡界・・・ぼくのいるのも歌謡界なんだけど、そこではセールス基準が絶対なの。それ以外は認められない。質?質もセールスに含まれてんの。一定のセールスをあげたものが質も高ければ商品価値がある、と。そういう意味合いになるわけ。

だけど、以前、ぼくのレコードがあまり売れなかったころとかにもいろいろ考えたんだ。もちろん商品化を前提としない作品っていうのはありえない。だけれども、はたしてセールスだけが本当に絶対的な基準なのだろうか・・・と。当時、“売れないポップス”なる逆説的な名称を自分で冠しながら考えていたのは常にそこ。で、今、『ロング・バケイション』を経て、こういうセールス基準の渦中に投げ込まれて強く思うのも同じことなんだよねえ。

じゃ、何が基準なんだ、と。質か。いや、さにあらず・・・だな。基準をセールスに置くことを否定した人がさ、質を云々するとき、弱いんだよ。質の伝統っていうのはないんだ。セールスの伝統っていうのはあるけどね。質を基準にしてきたって例は1度もないわけだし、たとえば、もし質が個人的な思い込みでしかないとしたら、それはもはや基準になりえないわけだよ。だけど、さてそれじゃ質ははたしてホントに基準になりえないのかどうか。あるいはセールス神話の中で他に何がしかの基準はありえないのか。

これが現代の・・・現代のっていうか、ぼくの問題なんだよね。ただ、これはもうセールス神話の中に踏みこんで証明するしかテはないわな。はたして変わりうるのかどうか。同じ土俵にのりこまなきゃ勝負にならないんだよ、やっぱり。となりの土俵でわめいていても、また10年前の繰り返しになっちゃうし。

え?『ロング・バケイション』を出したとき?あれはまだセールス神話に参加したこともないときだったからね。どういうことかも一切わかんなかった。じゃあ何を基準にしていたのかというと・・・これはけっこう面白い問題なんだけど、非常に個人的なものだからなかなか“これ”とかって言語化できないな。基準がなかったわけじゃない。間違いなく基準はあったけど。うーん、何なんでしょうねえ。

結局、途中途中の答は見つかるかもしれないけど、最終的にはちょっと見つけにくいものだと思う。それを探して音楽を創りつづけているとも言えるわけで・・・。

「大瀧詠一Writing&Talking」 インタビュー構成 萩原健太 宝島 1984年5月号

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?