辺見庸 会社社会にだって「鉄の規律」のようなものがある。

会社社会にだって「鉄の規律」のようなものがある。組織にはエスノ・セントリズム(自民族優越主義)に似たようなものや自民党優越主義といったものがいまだにある。両者はどこか似ている。これは傍から見ているとじつに愚かしいですね。ただ、ぼくは組織的運動というものに参加はしていませんが、否定はしない。どのみち運動というのはかならず政治化し、組織化するものではありますから。しかしその前段で、自分の怯懦、自分の無知、それから個体の存在のありようを徹底的に凝視することによって、自分を解析していく作業が要ると思っています。それによって、少なくとも抵抗の橋頭堡を内面的に作れるようにする。弱虫は弱虫でいいと思うんです。けれども運動というのは、市民運動もふくめて人間の勇敢なところを前提にしすぎる。でも実際にはちがうでしょう。内面との齟齬が大きすぎるのです。

たとえば、住基ネット反対を組織としては叫んでも、一個人としては役所に行って、自分の住民票コードを削除してくれなんていう気もない人が多い。これもまた戦後民主主義そのものでしょう。組織として、集団としては主張する。でも、個体の主体的、自発的表現としては大したことはやっていない。ある意味でその方が楽なんですよ。行動を上から指示された方が、上部の指示には疑わずに従うべきだと信じるほうが楽でもある。まちがえても他者の責任にできるし、ぼくはそういうものの集積が、戦後の風景を決めてきたのだと思います。要するに、個体としてはなにも率先して決めないんです。有事法制には反対だと、たしかに僕のまわりのだれもがいう。しかし。2002年4月16日の閣議決定後、時を映さず反対する個体たちがそれぞれ自発的に行動を起こしてなんらかの表現をしたのかといえば、実際にはなんにも起きていないのです。上の指示がなかったからであり、前例がなかったからであり、なによりも「個」として表現する意思がもともと希薄だからです。これはいったいなんなのか。このことは、ロジックを超えた卑怯さ、集合的気分としての戦後民主主義の表現の回路が完全に目詰まりしていることを物語っていると思います。

個的責任こそが大事だと思う。ばらつきがあっても、それは一向にかまわない。むしろそこで、自己表現の質を高めていく必要がある。それに反して主体性や個的責任を薄めたり揮発させていくような運動や組織なんて、思想的にはなんにも残らない。自己表現の契機になるようなものはなにもないわけですから。

つまり、だれも内面から語ってないんです。あるいは、ほんとうに身体的な行動を伴う決意としては、表現しようともしていないんだと思う。ただ論理整合性のみを競う。しかしそういう言説は、とくに9・11以降はだめだと僕は思っています。9・11という試薬で、多少なりとも身体を担保しない表現の無効性が明らかになった気もします。これは、テロや暴力一般の問題として単に否定的に論じていい問題とはちがう。自己表現と暴力の関係、国家テロと反国家テロの戦闘のなかでの言語表現とは何か・・・・・・ということも念頭に置くべきではないでしょうか。マスメディアの枠にいささかの抵抗もなく収まっている日本の論者がいうような「穏当を欠く」とか「バランスを欠く」という発想には意味がない。状況がとっくに穏当を欠いているんだから、むしろ、どう自覚的に則(のり)をこえるかが大切です。僕は常に自己点検的でいたいと思う。状況論はうんざりするほどたくさんの人がやってくれているしね。結局、この風景が変化していくというのは、一つひとつのじつに微細な個的営為や個的表現の全体的総和でしかない。だから、自己の点検と個の自発性が大事なのです。このおぞましい風景を変える力は、自己を棚上げした状況論はありえない。運動を語る場合も、どこまでも厳しく自己を徹底的に問うていくことでしか出口は見つからないと思います。

ボードリヤールなんかは、思想というものがどんどん無化されていくシステムというか機制をうまく表現している。軽妙にゲームをこなしていくように彼は状況を語る。それはそれで面白いし、ぼくが嫌いではない。でも闘う内面的契機をボードリヤールは提示してません。結局、それは自分で探すしかない。敵は自分で探すしかない。その意味でも9・11は大きいですね。それで世界が変わったのではなく、世界の実質を暴き出したからです。有害なものであれなんであれ、かりに9・11がなかったら、我々は世界となにもつながらない言説を垂れ流しつづけていたかもしれない。


辺見庸 「いま、抗暴のときに」

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